夕凪(2) / 油すま吉






 *    *    *


どのくらいそうしていただろうか。
焼けつくような日差しは弱まり、潮風が重く湿りはじめた。
このままでは文字通り日が暮れてしまうと思ったムウは帰りを促した。
「まだだ」
しかしシャカはにべもない。
「まだ…?まだとは、あと具体的にどれくらいだ。半日?三日か?君は昨夜もろくに寝ていないだろうに」
「まあ、ここで年を越すつもりはない」
…シャカといると自分が意外にも気が短いということを思い知らされる。
返事の代わりに踵を返したムウをシャカが呼び止めた。
「待ちたまえ」
やけにはっきりとその声が聞こえたと思ったそのとき、波の音も、海原も、空の雲までも、すべてがぴたりと静まり返った。
まるでその一言でこの世の全てを従わせたかのようであり、その無音の間に幾億もの時が消え去るようにも思え、ムウもまた、シャカの瞳を見つめたまま動くことができなかった。


それが凪だと気づいたのは陸からの風に髪を煽られた時だ。毛先がシャカの頬にまで届き、ムウは慌てて左手で髪を押さえた。息を吹き返したような鼓動がいやに速く感じられる。シャカはムウを見つめたまま右手を伸ばすと肩越しに彼方を指差した。
ムウが目を転じると黒々とした山の端にひとすじの稜線が輝いた。するとそこから獣の腹を裂くように鮮やかな朱が空に広がりはじめた。火口の炎が低い雲に燃え移ったかのように空は黄金色から朱色、緋、紫と色を変え、幾筋もの光の帯が天窮を覆った。濃紺の海はたちまちに火に炙られ桃色に輝いている。夕日はまるで炉からあげたばかりの真っ赤に焼けた鉄のように雲を次々と赤黒く焼きながらゆっくりと海に沈んでゆく。
落日はシャカの顔も髪も、その青い瞳すらも金色に染めていた。その姿をじっと眺めているうちにムウはまるで自分が知らぬうちにシャカの技にかかりその場に縫いとめられているようにも思えた。この極彩色もいっそ幻影であったほうが得心がゆくというものだ。


「…地獄のようだ」
シャカの声は彼には珍しく低くかすれていた。
「ならばこの岩場はさしずめ賽の河原か…まったく。人は極楽を求めてこの島に来るというのに君は…」
ムウもそう揶揄するのがやっとであった。
「地獄も極楽も何も変わりはしない。大いなる輪廻から逃れられないかぎりは苦しみはつきることがないからだ。なのに君は己の苦しみに無頓着だから困る」
「は…?」
光が消えその表情は知れない。なぜ自分に話が及ぶのか、そもそもなぜわたしのことでシャカが困るのだ。惑うムウの目の前でシャカは無言のまま小さく身をかがめると、ムウの右の脛に飛び散った石の欠片を払った。
「っ…そんなもの自然に治る」
針の先ほどの傷口はすでに固まりかけていた。しかしシャカの指先がやけに冷たく、血が逆流するようだった。
その柔肌をもてあそびながらシャカはつぶやいた。


「いつか見た夕暮れを覚えているかね」
「夕暮れ…」
夕日なら数え切れないほど見てきている。しかしいつも一人だった。隣にシャカがいたことがあっただろうか。
「記憶にない」
「君は一人で海に向かい口汚く夕日を罵って泣いていた」
ムウは背を押されたような衝撃によろめくところであった。
「あれほど海を喜んでいた君がどうしたことだろうと、わたしは遠くで見ていた」
「それは…そんなものは古い話だろう、やめてくれ」
記憶よりも先に感情があふれ出し、ムウは思わず声を荒げた。
「君は怪我にたとえるなら瀕死の重傷を負ってそれを放置している。ろくに歩けないのに血を流しながら走ろうとしている。このままではますます苦しむばかりである」
「黙れ…!」
いつのまにかしっかりと脚を抱えられているシャカからムウは逃れようともがいた。
「どんなに崇高な運命であっても…わたしは…わたしにはあのシオンの死を受け入れることなどできない!君はそれがいけないことだとでも言うのか!?」
なぜそんな言葉が出てきたかは知れない。
「そうだ君はこのままでは永遠に立ち直ることなどできまい。…だがそれでよいではないか」
「え…」
聞き間違いでなければシャカはそう言っ放った。
ざわめきはじめた波の音から耳をすまそうとムウは動きを止める。
「君が地獄で苦しむさまをわたしは見ている。だから君は常に見られていると思いたまえ」
いつのまにかシャカは足場を占領し、抱えあげるようにムウの背にまで腕を回していた。
その言葉は小宇宙で呼びかけたときのように、ムウの脳裏に音として響き刻まれていった。

…そんなことで喜べとでもいうのだろうか。
シャカの言動はいつになくわけがわからない。だがやけに真摯な様子は喧嘩を売ってるわけではないことだけは知れる。
「…わかった。わかったから…離せ」
とりあえず人目がないとはいえ、この体勢は恥ずかしい。
本当にこの男は、個人的な事柄に干渉するなどというのではなく、すでに心の中に居座っている。迷惑千万である。
羞恥や怒りや呆れを通り越して、笑いがこみ上げてきた。
「おかしいかね」
「ああ。可笑しい。物好きにもほどがある」
だからなぜそこにもかしこにもシャカがいるのか。
ナンセンス極まりないが、至極当然にも感じる。
心に吹きすさぶ風がひととき和らいだようでもあった。


気が付けば空には星が輝きはじめていた。
闇一色であった海原が白くさざめく。風は強く全ての雲を海の彼方に押し流すようだった。
「帰るか」
「うむ」

森を一足に跳びこえ道に降り立った。
シャカは道を目の前に立ち止まったままでいる。
「まさか方向が分からないのか」
「右か左だ」
「それは一本道だから…」
「島であるのだから理論的にはたどりつくことができる」
「一周するつもりか?」
「夜明けまでには着くだろう」
ムウは反論その他を諦めた。
旅はまだ始まったばかりだというのにいかにもひどい。
しかし残りの日を惜しいと思い始めたのは不思議であった。




fin





このたびはシャカムウでハワイという楽しい旅企画、開催おめでとうございます!初日から滑り込みアウトで失礼いたしました。
シャカムウかも怪しい変な話になってしまいましたが、お付き合いくださいありがとうございました!二人で夕日を見たよっていう話です。
風景描写もいんちきとはいえ一応カハウロア(Kahauloa)あたりをイメージしましたが…あくまでイメージ…でした。冒頭の詩は呉茂一訳詩集『花冠』p.251より。
皆様、そして二人ともどうぞ良い旅を!Bon Voyage!油すま吉@ソルティカルテット