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la terra desolata side Mu 雨は心を落ち着かせる。 ぴりぴりと乾いた空気も、砂を舞い上げる大地も、天からの雫を浴びてしばしその瞼を閉じる。 雨は、ささくれたもの全てをその身に包み込み、いずこへか流してゆく。 春の雨は、どこか涙にも似ていた。 こんな静かな朝は、ゆっくりと本でも読みながら窓の外を眺めていたい。 久々の安穏――。たとえそれが表向きだけだったとしても。 つかの間の休息をこの身に与えるというささやかな贅沢。 しかし、それさえもどうやらわたしにはゆるされないらしい。 「一体何事ですか。急にこんなところまで呼び出したりして」 呼び鈴も鳴らさずに開けた扉の先で顔を向けたのは蟹座のデスマスク。さすがに自分から呼び出しただけあって、いつものようにわたしの顔を見て舌打ちするようなことはない。 「せっかく休暇をとったというのに、いざ聖域を出ると心配ですか? わたしに何か言われているとでも?」 長旅の疲れでつい余計なことを言ってしまう。いつものことだが、相手がデスマスクだとなぜだか言葉が辛辣になる。 「うるせえ」 一言そう言い返すと目の前の男は横を向いた。いつもならこの後二言三言は言い返してくるはずなのだが。 「顔……見せてくれ」 「……は?」 思わず問い返してしまった。 見せるもなにも。こうして今対面しているというのに。 やはり今日のデスマスクは変だ。 彼はふらりと立ち上がるとわたしの前に歩み寄り、力なくその手を背中に回した。日の落ちた部屋で、デスマスクの影がゆらりと揺れる。 ――まずい。 わたしの本能がそう言っている。 「……同僚の、しかも男で済ますのですか」 いつも女には困っていないデスマスクにそんなつもりがないのはもちろん分かっていたが、こうも弱っている ところを見せられてはきつい冗談でも言うしかない。 「ああ」 しかし予想に反して、デスマスクはそう言ったのだった。 これは、思っているより重症か……。思わずため息が漏れる。 デスマスクは自分の言った言葉に責任でも持つかのように、背中に回した手を腰に落とした。相手が女ならそれでいいが、自分が手を回しているのはこのムウだというのを分かっているのだろうか? デスマスクは腰に回した手を力なく離すと、そのまま後ずさりベッドに腰を落とした。 まったく、わたしの前でそんな顔をしていたら後で後悔するのがわからないのだろうか。わたしに弱みを見せているという自覚すらないのかもしれない。そもそも、弱っているときに呼んだのがわたしだということが信じられない。 わたしはしばらくベッドに座ったデスマスクを眺めながら、言葉が出るのを待った。まさか顔を見ただけで用事が済んだわけではあるまい。 「サガとはどうなんだ」 サガのことなど本当は興味などないでしょう……。多少なりとも巻き込んでしまって心配されているという可能性も否定はしませんが。それにしてもあなたらしくない。 「相変わらずです」 こちらはそうとしか言いようがない。 あなたには他に言うべき言葉があるのでしょう? わたしはその言葉を待ってデスマスクを見つめた。 「帰ってもいいぜ」 投げやりに、デスマスクはそう言った。 不完全燃焼なことこの上ない。散々弱っているところを見せ付けて、そのまま帰れるわけがないでしょう。 「泊まってこい、と言われています」 わたしは冷たくそう言い返した。 「……いい趣味だよな」 皮肉めいた言い方をしているが、その歪めた顔はまるであなた自身が苦しんでいるようだ。 「――苦しみたいんでしょう。ひとりで」 あの人は、いいんです。自分から苦しみを掻き寄せてしまう人ですから。そしてそれが、心地いいんです。 あなたが心配するようなことではない――。 それより、あなたでしょう? 一人で苦しもうとしているのは。 デスマスクが小さく見える。俯いて肩を丸めた彼は、叱られた少年のようだ。長く吐き出した熱い息は、心に溜めた苦しみを出しきれずにもがき苦しんでいるようだった。 「さっさと終わらせて休みましょう」 なぜか、そう言っていた。 このままでいるのはお互い苦しいだけだ。 形だけでも、慰めあえばいい。 この人が苦しんでいるところなんて、わたしは見たくない。 いつも威勢よく相手を罵る姿こそわたしの知っているデスマスクだ。 憂いなどいつもの得意技で一息にあの世に送り返せばいいものを…… わたしは髪を束ねていた紐を解くと無造作にベッドに腰を下ろした。 「おまえもうちょっとこう……」 急に態度を変えたわたしに戸惑っているらしい。 焦ってそう言ったまま、デスマスクはしばらくわたしの顔を凝視していた。 どうです? やはり宿敵ともいえるわたしとではいやなんじゃないですか? わたしは言葉を失ったデスマスクを無視して靴を脱ぎ、ショールを外した。 後はあなた次第ですよ。罵詈雑言の一つでも言ってみたらどうです? 冗談に決まってるだろ、お前なんか抱けるかよ、とか。 しかし、デスマスクは一瞬切なそうな目でわたしを見ると、それまで見つめていた視線を外して言った。 「誘うにしてもその態度はないだろよ。じらさないでください、くらい言ってみろよ」 「じらさないでください。時間の無駄です」 冷たく言い放つ言葉はいつも一言余計になる。 「……おまえねえ」 少しはいつものデスマスクに戻っただろうか。わたしは密かに安堵した。 日が落ちていつの間にか暗くなった部屋に明かりが灯る。 蝋燭のあたたかな光が二人を照らす。 淡いオレンジの光に包まれたデスマスクは、いつもよりやさしく見えた。 わたしをじっと見つめたまま、息を呑んで何も言わない。 ああ、まずい。これはほんとうに…… 満ち足りているデスマスクが、そこにはいた。 「もう少し長さがあったほうが……」 とりあえずそう言っていた。もうなんでもいい。沈黙さえ破れれば。 「ん?」 当然そういう反応しか返ってこないでしょうね。 「いずれ、使うのでしたら」 とりあえずそう言ってみた。なんでもいいから、罵倒してほしかった。 デスマスクははじめ言葉の意味がわからなかったらしく呆然としていたが、瞬間弾かれたように赤くなると あわてて言った。 「…おまえ…俺が蝋燭垂らしたり挿れたりするわけないだろ?!」 「そうですか」 平静を装ってわたしはそう言うと目を伏せた。 デスマスクがわたしを見つめているのがわかる。 心が、わたしに向いているのがわかる。 本気なのだ。この人は。 報われないと知っていて…… 溜息を心の中で飲み込んだそのとき、ふいにデスマスクが言った。 「見ているだけでいい…」 「視姦ですか? 自慰でもします?」 自分でも何を言っているのかわからなかった。 なんでもいい、絶望してほしかった。わたしという男に。 「いいから黙ってろほんとに黙ってろ!」 デスマスクは大声で怒鳴ると額に手をやり、視線を逸らせた。 「サガにそんなことさせられてんのか」 短い沈黙の後、デスマスクはそう言った。 そんなことを聞いても自分が傷つくだけだと知っているくせに…… 「いつもではありませんが、サガに見られていると…たまらなくなって自分でします」 とどめを刺すつもりでそう口に出した。無理に出した言葉がわたしの胸を締め付ける。 さすがにショックを受けたのか、目の前の男は一瞬動きを止めた。わたしの目を瞬きもせずに見つめている。 「何やってんだよおまえらは…」 「少し普通じゃないのは分かっていますが」 目を伏せたまま平静を繕ってそう答えた。 「わたしも嫌いではないので」 そう付け加えてみる。 「ふん…そうか」 さすがに幻滅したでしょう? あなたが敢えて苦しみを背負うような相手ではないのです。わたしという男は…… 「じゃ遠慮なく楽しませてもらうぜ」 デスマスクは苦しみをふりはらうようにそう言うと喉元から笑い声を絞り出し、わたしの肩を敷布に押し付けた。 それでいい。囚われるのは体だけで十分だ。 むき出しの心をぶつけてもあなたが苦しむだけ。 わたしのことも、都合よく使うがいい。いつもの場末の女のように。 わたしは素直に身を投げ出すと静かに瞼を閉じた。 わたしが抵抗しないとわかるとデスマスクは一瞬力を緩めたが、次の瞬間には何かを振り払うように行為に身を投じた。 わたしの頬に、その唇があたる。やさしく、傷つけるのを恐れるように、触れるか触れないかの口付けを落としてゆく。 ふいにわたしの弱いところに唇があたり、思わず体が硬くなる。 わたしはそのまま身を任せる。デスマスクは、どこまでもやさしくわたしの体を愛撫する。 思いに反して、わたしの体は熱を帯び、体は小さく震えた。 体だけ。心を感じてはいけない。 彼の心を知ったら、わたしはそのままではいられないから。 一人で泣いている彼を放ってはおれないから。 それでも、彼の愛が伝わってくる。 いやおうなく、その唇から、指先から、溢れるほどの気持ちがわたしに注がれる。 ああ、この男はこんなにもやさしいのだ。 受け入れまいとしても、わたしの心に入ってくる。 狂おしいまでに愛し、苦しみ、自分を偽ってまでわたしを守ろうとする。 この男のいかに純粋だったかをわたしは今知った。わたしに対する態度も、悪態も、その苦しさから逃れようとして自分を偽ってきたにすぎないのだ。 そんなことを思って、わたしの心の結界が弱まったのかつい堪えていた声が漏れる。 このままともに昇りつめようか…… しかしそれでは彼はもう離れられなくなるだろう。 わたしの思いに反して、それでも体は反応する。 彼は、わざときつい言葉をわたしに浴びせる。 だが、わたしにはもうわかっている。それがあなたの本心ではないということが。 いくら酷い言葉を投げつけても、彼の指先はどこまでもやさしい。 けしてわたしを傷つけることはない。 彼はわたしの唇を求めた。 一瞬意識が朦朧として、わたしもその舌を追う。 体が強く抱きしめられ、二人の体は一つになる。 本当はいけない。いけないことだとわかっている。 ふたりの行く先には不幸しかない。そしてあなたはそれをわかって突き進んでいる。 突然彼の荒々しさが増した。 この男も、わかっているのだ。このまま気持ちまでぶつけてはいけないということを。 行為に没頭して目の前のわたしを見ないようにしている。いつもの女たちをわたしに重ねて見ているのだろう。 彼は無理やりわたしの体を起こし、腹の上にまたがらせた。 わたしは彼の両手に指をからませ、じっとその目を見つめる。 そのまま腰を落とし、彼を見つめたまま淫靡に腰を動かす。 思わず声が漏れる。 ほら、わたしも街の女と同じでしょう? 彼はそんなわたしをしばらくじっと見つめていた。 彼がふいに腰を突き、わたしの中に深く押し入った。 荒々しく攻め立て、そして果てる。 荒い息を吐くわたしに構うことなく、そのまま倒れたわたしの体を抱き寄せる。 わたしの肩を強く引き寄せ、自分の胸に押し付ける。 汗ばんだ彼の胸は、温かかった。 息ができないほどに強く締め付ける。彼の鼓動がそのままわたしの心臓に突き刺さる。 苦しい息を吐くわたしの唇を彼の口がふさぎ、そのまま強く突き上げる。 理性がゆらぎ、互いの舌を絡ませあう。 彼は夢中でわたしの体を求め、激しさを増す。 ああ、こんなことをして、ふたりはどこへ行こうというのか―― 理性が完全に失せた瞬間、閉じた瞼の裏に真っ白な世界が広がった。 一瞬、意識を失っていた。 わたしはデスマスクの腕の中にいた。 つながり、強く抱きしめあったまま、どろどろになって横たわっている。 彼は目を瞑ったわたしの顔を覗き込んでいる。 と、そのとき、額にやわらかな唇が触れた。 わたしは思わず目を開いた。 わたしに覆いかぶさるようにして見つめている彼の瞳を覗き込む。 ――この人は、なんて不幸なのだろう。 自分を偽ろうとしても偽ることができない。 不幸な役回りを自ら背負い込み、自分を嘲笑することで傷から逃れようとしている。 本当はやさしい男なのに。 本当は賢いひとなのに。 本当は、だれよりも傷つきやすいのに。 いつも平気な顔をして、駄目な自分を演出している。 落ちるのが怖いから、低いところにいようというのか? 罵られる前に、自嘲しようというのか。 失うくらいなら、求めない。 いつもあなたはそうやってきたのでしょう? 演じるなら最後まで演じ通せばよいものを。 そうやってあなたは隠しきれずに、一番弱いところをさらしてしまう。 不覚にも、わたしの瞳がかすかに揺れた。 デスマスクはわたしを見つめている。 心をどこかにおいてきたかのように、何も見ていないような目でわたしを見つめる。 そしてそんな彼の心のありかを、わたしは知っている。 彼の腕に力がこもった。 堪えきれないというように、強くわたしの体を抱き寄せる。 ああ、もう、このひとは落ちてしまったのか。 けして救われない地獄の穴に。 「デスマスク」 わたしはそう言っていた。 「何だよ」 彼の声はやさしい。 「そんなに優しくしないでください」 わたしは視線を落としたまま小さく言った。 「何でだよ」 いまの彼は、無防備すぎる。 「あなたのことを好きになったら困ります」 わたしはそう言っていた。 困ります。あなたが不幸になるのは。 彼は黙っていた。 きっとわたしの言葉は彼の心を打ち抜いたのだろう。 彼は苦しそうな息を漏らすと一瞬動きを止めた。 「どうしました?」 「……くそ」 彼の口から小さくそう声が漏れる。 わたしは微かに震える彼の肩を抱き寄せ、背中に手をやった。 広い背中をそっとさする。 わたしはそのまま彼の頭を抱き胸に押し当てた。 自分で心を貫いておきながら矛盾していることはわかっている。 こうすることが、かえって彼を苦しませてしまうことも。 それでも、彼をそのままにはしておけなかった。 わたしはなだめるように彼の髪をなでた。 「……馬鹿言え」 突然彼は低い声でそう言うとわたしを乱暴に引き倒した。 わたしはなぜか安堵していた。 「俺を誰だと思ってんだ」 そこにいるのは、いつものデスマスクだった。 ベッドに叩き付けるようにわたしの体を押し倒し、痛めつけるように弄ぶ。 さっきまでの自分を否定するかのような、強引な指。 わざとわたしを苦しめ、憎しみを引き出そうとしているかのようだ。 それでもわたしは、逆らわない。 逆らえない。 こんな悲しい眼差しで見つめられてしまったら…… 痛めつけられているのはあなたのほうだ。 矛盾する心に引き裂かれている。 強い力と暴力的な愛撫がわたしを無理に昇りつめさせようとする。 苦しさに涙が滲む。 それでも、わたしの心は静かだった。 いつものように演じようとしているあなたがわかるから。 ふいに、彼と目が合った。 きっとそのときわたしは、哀れむような、縋るような、切ない眼差しをしていたのだろう。 彼はわたしをめちゃくちゃに突くとそのまま叫ぶようにして果てた。 彼は、背を向けていた。 わたしは彼に悟られないように静かに涙を流した。 わたしの流した涙があなたのためだと知ったら、あなたはもう引き返せないでしょう? あなたの芝居に付き合ってあげます。 あなたはわたしをぼろぼろにした。 そういうことに、しておいてあげます。 静かな寝息が聞こえてくる。 隣でデスマスクは安らかに眠っている。 あんなに荒々しかったのがうそのよう、というか、あのときのあなたは本当のあなたではなかったのだけれど。 眠っているときでさえ、このひとはどこか寂しそうだ。 あなたはどうしていつも、人に自分の欲しいものを譲ってしまうのだろう。 まるで自分には幸せが似合わないとでも言うように。 わたしは閉じられた眼を見つめながら、そっと彼に顔を寄せた。 髪がさらりと彼の顔に落ちた。 彼が目を開け、わたしの瞳を覗き込む。 心の内を見られまいとするように、彼は慌てて目を逸らした。 「まだ居たのかよ」 そっけなくそう言い放つ。 「……デスマスク」 「とっとと帰れよ。サガが待ってるだろ」 そうやっていつも第三者を決め込むんですね。 「あなたは大丈夫ですか?」 もう少し自分のことも気にしてください。 「ああ。せいせいしたぜ」 デスマスクはそう言うと重そうに身を起こした。 「良かった。少しは役にたつのですね」 「何が」 「この体がです」 体だけしか、与えられないのですから。 「…何を言ってんのおまえ」 呆れたように、デスマスクはそう言った。 「ヤケになるなよ」 「……」 その言葉、そっくりあなたに返しますよ。 「そういうところがサガに似てきたぜ」 「それは…良くないですね」 まわりを巻き込むようなことは、しませんから。 思わず自嘲的な笑みが漏れた。 「時々分からなくなるのですよ」 わたしはそう呟いていた。 「サガと…このままで良いのかと」 あなたにこんなことを言うのは酷だとわかっているのに。 「これ以上あの人を苦しめるのであればもう……」 救いの無い地獄にも、もし道が残されているのであれば。 「馬鹿言え」 わたしの言葉を打ち消すようにデスマスクが言った。 「どっちにしろおまえの勝手だがな」 突き放したように言っても、やさしい目をしているのを彼は気づいていないのだろう。 「サガの性格からしておまえがいなくてもいてもどのみち苦しむ。別れたら別れたことを一生引きずるような 男だぞ」 「やはり無駄…ですか」 わたしは、誰の心も救うことはできないのですね。 自嘲を込めて言ったつもりが、涙を含んだ声になった。 「怒るぞ。おまえ、俺がおまえらにどれだけ騒がされたと思ってやがる」 わかっています。あなたをどれだけ傷つけてしまったか。 一番巻き込んではいけない人を巻き込んでしまったのですから。 本当は自分が慰めて欲しいのに、こうしてわたしを慰めている。 押し殺した心が泣いているのが、わたしにはわかる。 頬にまた一筋、涙がこぼれた。 「デスマスク」 涙が乾くのを待って、わたしは彼を振り向いて言った。 「なんだよ」 「ありがとう」 あなたが必死に隠そうとしていることを、わたしは言ったりしませんから。 あなたは冷徹で酷い男、それでいいのでしょう? 口元に小さく笑みがこぼれる。 デスマスクは戸惑ったようにわたしを見つめていたが、慌てて目を逸らすと タオルを投げてよこした。 「風呂に入っていけよ。羊のフライになっちまうぞ」 たしかにわたしたちはオイルや汗でべとべとになっていた。 わたしは彼が蹴ってよこした室内履きを履くと、二三歩歩いて足を止めた。 「あなたはいつもそうやって心を隠しますよね」 振り返ってそう言った。 「…何の話だ」 彼はとぼけてみせる。 「とくに今日は様子が変です」 自分でもわかっていたでしょう? 「どうでもいいだろ。…それより風呂に入っていけよ」 たまには素直になってもいいんですよ。 もう少しゆっくりしていけよ、そう言いたいのはわかっているんですから。 風呂場に入り、べとついた体にシャワーの雫を浴びる。 浴室内はきれいに整頓され、イタリア男らしくボディケアやコロンが並べられている。 本当は、もっといい役回りを選ぶこともできたのに。 髪を伝う雫を眺めながら、そんなことを思う。 愛される立場だって、選ぶことはできたのに。 「石鹸はどこですか」 濡れたままの顔を浴室の隙間から覗かせ、デスマスクに声をかけた。 わたしは本当に意地が悪い。 今のわたしがどれほど魅力的かわたしは知っているのだから。 そして、今のわたしを手中に収めているのは、ほかならないあなたなのですよ。 今のわたしを好きにできるのは、あなたをおいて他にいないのですから。 デスマスクは食い入るようにわたしを見つめている。 少し薬が強すぎたか。 「蟹のフライ」 空気をかわすようにわたしはぽつりと呟いた。 「……お腹がすきました」 あなたの手におえないようでしたら、朝食でも作っていてください。 「そのまえに石鹸だろ……洗ってやるよ」 石鹸を持って入ってきた彼と、わたしは再び抱き合った。 そう、欲しいものは欲しいといえばいい。 わたしはあなたを拒絶しない。 あなたが、そういうひとだから。 一時間後、食卓には立派な朝食が並んでいた。 カラスミとウニとレモンのパスタにカルパッチョ。ワインはコロンバの白。 カポナータと牛肉のグリルにはサラパルータの赤。 デスマスクは手際よく冷蔵庫の中のものでこれだけの品を作って見せた。 いつもの彼しか知らないものには、彼にこんな特技があるなんて信じられないだろう。 本来彼はまめな男なのだ。 朝食を平らげた後にはリコッタチーズのパイとコーヒーまで出てきた。 街の女たちは、もしかしたら本気でこの男のことを愛しているのかもしれない。 しあわせとは、きっとこういうものなのだろう。 愛し合い、二人で朝食を食べ、他愛も無いことを話しながら食後のコーヒーを飲む。 この男となら、きっと穏やかな日々が待っているのだろう。 サイドテーブルに一冊の本が置いてあるのが目に入った。 エリオット…わたしは小さくため息を漏らすとデスマスクを見つめた。 「美しい詩ですが、こんなものを読んでるからおかしくなるんですよ」 「おまえ勝手にな…」 「たしかに一度滅びたものを蘇らせるのは残酷です」 口に含んだコーヒーの苦味が疲れた舌の奥に広がる。 「そうだな」 デスマスクは何かの思いに沈みこむように、静かに本の表紙を眺めている。 あなたは、自分のことを思っていたのでしょう? 死ぬべきだった自分について。そしてあの人について。 「でも、大変なんですよね」 「へ?」 「直すほうは」 そう言って、わたしはパイを口に放り込む。 「…ああ」 直すには、大量の血を流さねばならない。直すのはわたし。でも、血を流すのは…… 「ヤケにならないようにします」 デスマスクの言葉をふと思い出し、そう口に出した。 口のまわりについたパイをぺろりと舐め、コーヒーをすすって笑って見せる。 「…賢明だな」 そう言った彼の瞳は、眩しそうにわたしの瞳を見つめていた。 ここに来たのが、もうはるか昔のような気がする。 うす曇の空の下、時折細かい雨が霧のように降り注ぐ中を、岬まで並んで歩く。 眼下に海を眺めながら、静かに二人佇む。海鳥の鳴き声が遠く響くだけで、他には何も無い。 朝の白い光の中、帰るべき先を見つめる。 進むことも戻ることも出来ない苦しみの中に、わたしは帰る。 愛すべき苦痛の中へ。 そしてそんなわたしの横顔を、時のたつのも忘れたようにデスマスクが見つめている。 彼もまた、救われない苦痛の中にいる。 同じものを見ているようで、わたしたちはまったく違う風景を見ていたのだろう。 わたしがなにげなくなげかけた眼差しに、あなたがどれだけ心打ちぬかれてきたかわたしは知らない。 そしてまた、あなたの苦しげに笑う姿がどれほどわたしの心を悲しくさせるかも、あなたが知ることはない。 聖域に帰ってきたら、またいつものあなたでいてくれますね? そしてわたしたちは再びお互いの役回りに収まり、わかっていてつまらぬ芝居を演じ続ける。 そうするしかないのですよね。少しでも苦痛を押さえ込むためには。 「では」 終わりの見えぬ思いを断ち切るようにそう言うと、わたしは彼に振り向いた。 「お疲れさまでした」 何に対して、わたしはそう言ったのだろう。 彼の苦しみに対して? いつもの役回りを演じ切ったことについて? わたしは歩き出した足を止め、再び彼を振り向いていた。 ふわりと歩み寄り、少し背伸びをして彼の唇に触れる。 軽く、触れるだけの口付け。 まるでわたしたちの関係のような、淡い接吻。 「お…驚かすなよ」 「失礼」 「何のつもりだ」 「……なんとなく」 彼がとても愛しいと思った。 けして結ばれることはないけれど。 わたしは彼に軽く手を振ると、目を合わせる前に背を向けた。 この瞬間から、わたしたちはもういつも通りです。 前だけを向いて、わたしは歩く。 波止場に着くと、いつのまにか雨はあがっていた。 あなたの心の雨も、今頃は止んでいるのだろうか。 〜fin〜 |