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日の名残り 聖域が黄昏に染まる頃、ようやく現れたムウは少し苛立っていた。 厳戒態勢のさなか第一の宮の守護を離れてきたのだ、無理もない。 「何の用だ」 聖衣もまとっていないわたしを一瞥するとムウは尋ねた。 「君に見せたいものがあってな」 わたしはムウを宮の奥に招いた。 日没は近いが、夜にはまだ少しだけ間があった。 押し開けた扉から吹き込む風に甘い香りが混じる。 園では二本の沙羅が白い花を風に揺らしていた。 「…見事だ。こうもいっせいに花開くものだとは」 ムウは驚いたようだった。 「初めて咲いたのだ。夜には散るだろうが」 「わかるのか」 「神仏のお告げだ」 いつもと変わらぬ問答に、ムウは軽く息を吐いた。 「用件は?別に花見に呼んだわけではあるまい」 「花見に呼んだのだ」 心底あきれ果ててたらしい溜息が聞こえる。 能天気がすぎるとでも思っているのだろうが、それはそれでよい。 「来たからには少しゆっくりしていきたまえ」 その「少し」がほんとうにわずかであることを思い、ムウを招き入れるとわたしは扉を閉めた。 ムウは観念したのか身じろぎもしない。 「…人が戦いに明け暮れようと季節は巡るというわけか」 転じたその視線は沙羅に注がれていた。 自嘲気味に呟きながらも真面目に花見をしようとしているあたり いかにもムウらしい。 わたしは振り返ると彼に告げた。 「正確に言うならば、この開花こそが神仏の思し召しだ」 「また神仏か?君は…」 ムウの言葉が途切れた。 相変わらず聡い男だ。 おそらくこの園のすべての花が咲いていることに気がついたのだろう。 花の絶えぬ場所は聖域では他に女神の加護のある慰霊地しかない。 わたしは立ち尽くしているムウを園の中央に誘った。 ムウは足元を埋める花に戸惑ったようだった。 「かまわぬ。そのまま歩いてきたまえ」 ムウは素直にわたしの後に従った。 踏みしだかれて枯れる花もあるだろうが、それもまた運命だ。 ほどなくして双樹の根元に着いた。 そこにはわたしの座す場所がある。 あまり広くはない草地にわれわれは背を合わせるようにして座った。 遠くに鳥の声と、風に揺れる沙羅の葉の乾いた音が聞こえる。 「…静かだな」 「うむ」 押し黙っていたムウがようやく口を開いた。 「君は見ないのか…花を」 「見なくてもわかる」 事実わたしには手にとるようにわかった。 今を盛りに咲き乱れる花々も 薄闇に浮かぶムウの横顔も ときに花弁のようにほの紅く染まるその白い肌も。 「こうしていると昔に戻ったみたいだ」 ムウは独り言のように呟いた。 「君があまりにも変わらないから」 「君は変わったな」 ムウがこちらに視線を巡らせた。 「重くなった」 「…まったく」 一瞬の沈黙のあと、長く息を吐いて、ムウはわたしに背を預けてきた。 「どうだ重たいだろう」 「うむ。…だが心地よい」 背に触れる聖衣が温い。 「…君は昔から背負いこむのが好きだから」 「何をだね」 「何もかもだ」 吐き出すようなムウの言葉にはいつもの皮肉めいた調子はなかった。 「そのためにわたしは生を受けたのだ。好き嫌いの問題ではない」 「本当に君は…」 ムウは三度目の溜息をつくとわたしの肩にその頭を乗せた。 緩く束ねた長い髪がたわみ、わたしの胸のあたりにさらさらと落ちた。 わたしはそのひとふさに指を絡めながら言った。 「使命を果たせることは喜ばしい。だがこの世に惜しむべきものがあるという幸いはそれに勝る。そうは思わないかね」 「シャカ…?」 「たとえ大いなる運命に何もかもが流れ消え去るとしても…」 ムウが身を起こし、指先からするりと髪が解けた。 わたしはふと我にかえり、口をつぐんだ。 「…相変わらず君の考えていることはわからない」 ムウの声はどこか不服そうだった。 「目を開けるな」 振り向いたわたしをムウは制した。 「…君の小宇宙が減る」 「ふむ…」 そんなことで戦いに支障が出るわけもないが、 確かに悟りきれていない状態での八識の完全な覚醒は賭けであった。 執着を捨てねば大悟など得られるはずがない。 だが迷える人として在ることを選んだわたしには いまはただ、消えたばかりのムウの温もりが惜しまれた。 その頬に手の甲を押しあてると、ムウは身をこわばらせたが 拒む様子はなかった。 肌は花弁よりも薄く滑らかだ。 おとがいをなぞるうちに、指先は唇に触れた。 そこは水気を帯びたように柔らかく、つつましい弾力があって 別の生き物のように息づいている。 指の腹を滑らせると、わずかにめくれた上唇の端から、湿った熱い息が漏れた。 何かを告げようと唇が動いているが言葉にはならない。 わたしはムウの額に指を伸ばした。 「やめろ」 ムウはとっさに遮ったが、わたしの手のほうが早かった。 長い睫毛に触れたと思うと、私の指が濡れた。 「人の顔を何だと思っている!」 ムウはわたしの手を乱暴に振り払い、立ちあがった。 「…やはり君はわけがわからない」 低く抑えた声音は震えていた。 「帰る」 ムウはわたしに背を向けた。 折りしも西からの光が消え、闇があたりを覆いはじめていた。 しかしムウは去ろうとはしない。 「…白羊宮は死守する。だから君も…」 「何だね」 「早々に悟りを開いて戦いに万全を期せ!」 そう言い放つなりムウは振り向きもせず歩き出した。 この男はときおり神仏以上に無茶な要求をする。 わたしは笑んだ。 「案ずるな。悟りきれないことを悟った…ただ」 ムウの歩が止まった。 「君の眉にも触れたかった」 「いい加減にしろ」 ムウの気配が扉の向こうへ消えた。 日は落ち、時は迫っていた。 しかしわたしは不思議に穏やかな心持だった。 何もかも捨て、捨てることすら諦めて、心は安らいでいた。 なぜこんなにも心が軽やかなのだろうと思い巡らしたとき ムウにすべて預けてしまったからだと了解した。 「背を寄せていたのはわたしのほうであったか」 慈悲がない、身勝手だなどとかつてわたしはよく罵られたが、なるほど ムウが腹をたてていたのはこのためであったのかもしれぬ。 「君こそ重くはなかったかね…」 口付けると乾いた指先はかすかに塩の味がした。 君が涙するとこの胸も痛むのだから わたしの心はもはや取り戻せぬようだ。 …代わりに君の心を譲り受ければよかったのだな。 天を仰ぐと闇にひとひら花弁が舞った。 終 (ウィンドウを閉じてお戻りください) |