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※不健全サガムウ前提カノン→ムウ。性描写なし(ほのめかし程度)
Spring/Kill me later よく晴れた春の日の午後。 聖域は人もまばらで十二宮はまるで何事もなかったかのように静かだった。 今は女神が日本に帰っているらしく、他の聖闘士たちも休暇中で無人の宮が多い。 山側から聖域に入ったオレは、双児宮へと階段を下った。 思えば兄とまともに話をするのは13年ぶりだ。 頭はいいくせに肝心なところで要領の悪い男、サガ。 双子座聖衣に残った兄の最期の小宇宙からは、強い自責の念と、長い苦しみから解放された安堵が漂っていた。それをまた蘇えらせるとは女神も酷なことをする。 冥王との戦いは兄にとっても罪滅ぼしだったかもしれないが、すべてを拭い去れたとはオレには思えない。 だがせっかくの機会だ。 久しぶりに顔を見て、一言恨みごとでもボヤいたら去ろう、と思っていた。 しかし。 とりあえず何と呼んだらいいものか。 今更「兄さん」などと呼ぶのは気恥ずかしい。 …昔はよく、嫌がらせのようにそう呼んでいたものだ。 いかに嫌おうと、オレたちは血を分けた二人きりの兄弟。 それを思い知らせたかったからだ。 だが今はどうだろう。 さすがに分別くさくなる年頃だ。 13年の月日は長くも短くもあるが、15のガキが大人になるには十分だった。 * * * 双児宮の奥の寝室からかすかに気配を感じる。 …寝てはいないようだ。 オレも死んだはずの男。 ひとつ驚かしてやろうと小宇宙を消して近づいた。 扉を開けるとはたして、サガはいた、が。 先客がいた。 「兄さん…」 あまりに驚いて普通に声をかけてしまった。 兄はいた。 しかしその傍らにもうひとり。 女神と見紛うほどの長い髪に白い肌。 半歩ほど離れて立つそいつは、一瞬、サガの腕の中にいたようにも見えた。 こちらを見たその顔には確かに見覚えがあった。 「…ノックくらいしないか」 当たり前のようなサガの小言。オレはようやく思い出した。 「おまえは…アリエス?」 「あなたはカノン…ですね」 あのとき、女神像の前で会った教皇の弟子だ。その変な眉毛、間違いない。 聖衣をまとっていないせいか、ずいぶんと雰囲気が違う。 「カノン…ムウがここにいたことは他言無用だ」 サガは苦虫をかみつぶしたような渋面でオレを睨む。 そうだ、アリエスは確かムウとかそんな名前だった。 「別に構いませんよ、わたしは。それにこんなこと…誰に言っても信じないでしょう」 間髪入れずに当のムウが反論する。 こんなこと…?…ああ、そうだな、こいつら寝室で密会してた。それはつまり… オレは二人を見比べた。確かにただならぬ関係に見えないこともない。 「兄さんとは…」 「そうだ」 「違います」 ムウはそう冷たく言い放つと未練がましく伸びたサガの手を払った。 「ムウ、わたしはいずれ教皇にお許しをいただくつもりだ」 あろうことかサガが食い下がっている。なんだ、まさかの修羅場か!? 「思い違いをしないでください。あなたに心まで許した覚えはありません」 さっさと立ち去ろうとするムウをオレはドアの前で遮った。このままじゃあ、さすがにサガの立場がないぜ。 「待てよ。…じゃあ恋仲でもないのに?こんな真っ昼間から…そういうことか?」 「そうです。それが何か?」 ムウは凍るような目つきでオレを上から下まで見ると、吐き捨てるように言って出ていってしまった。 サガが大きくため息をつく。 オレは若干混乱していた。突然乱入したのは悪かったが、それにしても。 「なんだよ…今の。お楽しみを邪魔したオレも悪いが、あいつ愛想悪すぎるだろう!?」 「ムウを責めないでやってくれ。わたしが悪いのだ」 …いや、それは大前提としてだ。 「それでもな…」 すると、そこで初めて気が付いたかのようにサガがオレを見た。 「カノン…!おまえも…命を許されたのか…」 「ああ」 …遅い…遅いぜ! サガはオレが死んだことに気づいてはいたようだ。まあ、ジェミニが戻ってきたのだから当然か。 オレが改めて何か言おうとすると、先にサガが口を開いた。 「…これからは女神にお仕えするのか?」 「そのつもりだ」 サガはまた大きくため息をついた。今度はやけに深刻そうな顔つきだ。 「なんだ、弟の更生を喜べよ。兄としてうれしくないのか…?」 「…ポセイドンの話を聞いた…」 …あああああ…。そうか、サガたちはオレより再生が早かったようだからな…。知れるのは時間の問題ではあった。 それから後しばらく「わたしがおまえに何を言う資格もないがな…」から始まるサガの説教だった。 13年ぶりの説教は、教皇時代のキャリアも加わってさらに長々しく、オレはうんざりしながら必死で聞き流した。 …まあ、感動の再会、なんて期待してたわけではなかったが…少なくともこんなはずじゃあなかったんだけどな…。 三回目の「わたしはな」とき、ふと、オレは別の話題を振ってみた。 「ところで、あの、アリエス…ムウとか言ったか。奴とはどんな関係なんだ…本当は恋人同士なんだろ?」 兄の性格からして体だけの遊びとはとても思えなかったからだ。 「ムウか…ムウはな…」 その名を口にした途端、サガの眉間から皺が減った…と同時に笑顔とも渋面ともつかない微妙な表情がひろがってゆく。この気色悪さをなんと表現したらいいだろう。今すぐここから逃げ出したい。 「たしかに恋人同士というには、少し違うな…」 「えっ…違うのか…じゃあ何なんだよ…!?」 やっぱりあいつが言うような、フシダラな関係なのか?まさか兄に限ってそんな…。 しかしサガの言葉はさらに予想だにしないものだった。 「ムウは…わたしの…天使」 「…なん…だと?」 「天使」 オレは返す言葉を失った。 …どこからつっこんだらいいかわからないほどの勘違いぶりだ。 まず宗教違うだろうとかそんなことはすっとんだ。 男だろ? 聖闘士だろ? しかも黄金だろ? しかし、本人はいたって本気のようだった。 悪の化身とまで言われたオレがいうのもなんだが、あんな無愛想な天使がいてたまるか。 「そう思わないか。カノン」 …これは「思う」と言っても「思わない」と答えても怒り出すタイプの質問だ。 「…まあ、うん…兄さんがそう思うならそうなんじゃないか?」 「煮え切らない答えだな」 「天使様は今日は機嫌が悪かったようだからな!」 「うむ。だがムウは怒った顔も…愛らしい」 嫌味も通じない。 それどころか兄はうっとりと目を閉じて、その様子を心に思い描いている。 同じ顔であるオレはこんなアホ面をさらすこともあるのかと恐れた。 確かに可愛い感じの顔だとは思うが…たしかあいつらミロたち若い黄金はオレたちより10くらい下じゃなかったか? 三十路も近くなるとサガすらも年下に血道を上げる親父と化すというのか? 「…カノンよ」 オレの反応の鈍さにさすがに少し我に返ったのか、サガが若干厳しい顔つきになった。 …今更もいいところだ。 「このことは決して他に漏らしてはいけない」 「…ああ…分かっている…」 むしろオレは何も見なかった何も聞かなかったことにしたい。そのくらいサガの色ボケは弟として受け入れがたい。あの生真面目しか美点がないような性格のサガが色に狂ったらどうなることだろうか。すでに末期症状らしい兄をオレは心から真剣に案じた。 そしてなし崩し的に双児宮に滞在することになった。 * * * それから二日ほど経った頃だろうか。オレは教皇の間に呼ばれた。 聖域ではかつての教皇シオンが玉座に止まり、アイオロスと兄が補佐をしている。 だが今日は教皇は一人で、サガとムウがその前に跪いていた。聖衣姿でない、ということは非公式な呼び出しだろう。女神はまだ戻らず、休暇中のはずだ。オレの拝謁もまだだったのだから間違いない。 先日の件が頭をよぎり…オレは嫌な予感がした。そもそもムウにとってはサガは師の仇だ。どういういきさつで二人がデキたのか知らないが、教皇がそれを面白く思うはずがない。 「一緒にいるおまえたちを見たという雑兵の証言がある。別に責めているわけではない。正直に話せ」 …その声音は穏やかだが、責めないとか絶対嘘だろそれ… サガとムウの関係。サガは「絶対言うな」、ムウは「構わない」といっていたが、やっぱりこの流れ、バレたら結構ヤバいものがあるのだろうな。 「まあ、正直に話したからといって許されるわけではないがな…」 …自分でつっこむ教皇も案外、余裕がないのかもしれない。弟子と教皇補佐が二人して裏切るとか、復活早々、なかなかのスキャンダルだ。 オレは二人のちょうど真ん中の後方に跪いた。 「カノンよ、先日から双児宮入りしたおまえからも何か言うことはないか?」 早速来た。オレが呼ばれたのもやはりこのためか。 「恐れながら申し上げます。先日ムウを双児宮の寝室で見ました」 「ほう。寝室で」 サガの小宇宙が固まったのが分かる。ククク、バカめ、いい気味だ。 「…それはまことか、サガよ」 教皇を取り巻く空気までもが凍り付いてゆく。 「は…はっ」 「先ほどと話が違うではないか。わたしに偽りを申したのか?サガよ。おまえの罪はますます重いぞ」 …凄いな教皇、怒ると髪の毛が逆立つのか。猫か。これは普段マスクが要るのもうなずける。こんな具合じゃあお許しもらうどころの騒ぎじゃない。まず話すら無理だろ、サガよ。 しかしそのときだった。 「いいえ、いいえシオン!違います!シオン…すべてわたしが勝手に行ったこと…罰するならどうかこのわたしを!」 オレは驚いた。あの人形のようだったムウがシオンの足元に身を投げ出して額づいている。 サガが立ちあがる気配を察したオレはそれを遮ると言った。 「教皇、真実をお話しましょう」 「カノン…?」 サガが不審そうにオレを見る。 「申せ」 シオンに促され、オレは立ち上がり、胸に手を当てて恭しく告白の礼式を執った。 「ムウは確かに双児宮の寝室にいました。しかしその相手はサガではなくこのカノン!実は、わたしとムウは恋仲なのです」 「なっ…!」 「…は?」 サガもムウも言葉を失っている。そうだ、少し黙って聞け。 「出会ったその日にわたしたちは恋に落ちました。雑兵たちが証言したムウと共にいた男というのはサガではなく、もちろんこのわたし。しかしこのカノンは先の海皇戦で世界中に水害を引き起こした男…我々の仲は許されるはずもないと、兄とムウはわたしをかばってくれているのです」 教皇は興味深そうにオレを上から下まで見ている。師弟そろって目つきがそっくりだ。 「…海皇戦のことはわたしも聞いている。たしかにとんでもないことをしでかしたものだ。しかし女神も他の黄金聖闘士もおまえのことを許し、冥界では立派に聖闘士としての責務を果たしたとの報告もある。何よりおまえはこうして聖域に蘇ることを許されたではないか」 「めっそうもないことにございます。して、…事情はかくのごとくにございます」 勢いが勝負とばかりにオレは再度膝を折り頭を下げる。 「…うむ…そうであったか…」 そう答えながらも教皇の腹は決まっているように見えた。やはりムウのなんらかの変化には気づいていたのだろう。案外に単純なお人だ。オレも慎重にダメ押しをする。 「…教皇、あなたさまを手にかけた男など、弟子として許せるべくもありませんでしょう?」 「確かにな。…サガよ。疑ってすまなかったな」 ようやく教皇の表情が和らいだ。 ムウとサガはうつむいたまま、無言だ。そりゃあ何も言えまい。 「では最後にひとつだけ聞く。一目惚れというが、ムウのどこに惚れたのだ」 …えーと。…弟子バカと聞いていたがこれは…オレは半ばあきれながら丁重に答えた。 「高貴でみやびやかな眉毛でございます」 「フッハハハハ…そうか!童虎が申すように、なるほどカノンおまえはなかなか見どころのある男よ!」 急激に険をおびるサガの小宇宙を感じるが知ったことではない。 「…よし。カノンよ。ムウとの仲を認めてやるぞ」 いや、…それは正直できすぎだと思ったが、いまさら引くわけにもいかない。 「有り難き幸せ…!このカノン、この愛に一命を捧げることを誓います」 オレは改めて姿勢を正すと深々と頭を垂れた。 * * * かくしてオレたちは無事、教皇の間から抜け出ることができた。 扉の向こうで振り向いたサガは鬼の形相をしていた。 「カノン…貴様…まったく次から次へとよくもまあ、でまかせを…!」 「あのな。頭を使えよ。ムウと会っているのはオレということにすれば、兄さんたちは堂々と会えるだろ?」 「うっ…そ…それは…しかし!」 「ついでにジェミニもくれよ。そうすれば完璧だ」 「ふざけたことを!…ムウ、やはりこんなことはいけない。もう一度正直に話そう」 「サガ…。それには賛成です。ですが今はあまりに間が悪い…せっかく…」 「そうだよな、今出ていったらサガもオレも殺されかねん。もちろんムウもな」 「ムウ…おまえはこれでいいのか…」 「シオンが…わたしとの仲など言い出したことは意外でしたが、カノンのことは確かに女神のご意志でもある…うまくやってゆくしかありますまい」 「…ムウ」 「サガ…」 こいつらはしばらく見つめ合っていたが、サガは諦めたように目を閉じるとムウに背を向けて歩き始めた。 その後ろ姿を見つめるムウは今にも泣きだしそうな顔つきをしている。 少し乱れた髪と相まって少女のように頼りなげな横顔だ。先ほどのシオンに嘆願した言葉がこいつの本心だろうか。 この前とはまるで別人のようだった。 オレは立ち尽くすムウを促すと並んで階段を下りた。 * * * 双児宮に着くとサガは一言も話さないまま自室にこもってしまった。 どうやら教皇がオレを許したことが、サガにはよほどショックだったようだ。 「サガが心配です」 帰り際にムウがつぶやいた。 「女神にいただいた命。自害など許されない。それは分かっていると思うのですが…」 「なあに、オレがついてるさ」 「…ありがとう、カノン」 ムウはオレを見上げてわずかに微笑んだ。少しばかり口角を上げただけだというのにオレは不覚にも一瞬見とれた。 「心配ないぜ、サガは、あのハーデス戦を乗り切ったんだ。大丈夫だよ」 ムウはオレを無言で見つめていたが、「大丈夫だ」といったとたん、その目から涙が溢れた。 いままで必死にこらえていたのだろうか。 ポロポロと涙をこぼすムウをオレは思わず抱きしめた。 「カノ…」 「ここは玄関口だ。誰が『運よく』見ているかわからないだろ。」 ムウは驚いたもののオレの言葉に抵抗をやめ、しばらく素直に抱かれたままでいた。 夕闇が迫り、顔はよく見えなかったが、大粒の涙が海原のきらめきに見えた。 ムウの姿が見えなくなるまで見送り、双児宮に入ろうとしたとき。 入り口に悪鬼のような気配を漂わせたサガがいた… …まさか。 気配を消して見ていたのか… なんて間の悪い奴…! 「…ほら、演技だよ、演技!」 明るく笑うオレとは対照的にサガは地の底から出てきたような低い声でつぶやく。 「我々が…祝福されうるべくもないことは分かっていた…だが…なぜ教皇は、カノンおまえを許したのだ。そしてこともあろうにおまえとムウとの仲を認めるなど…。よもやわたしを苦しめるためか?…やはりわたしはこの想いを秘めておくべきだったのだな…」 思考はすでに堂々めぐりしているようだった。 あーあ…オレの経験上、サガはもうしばらく浮上できまいなあ。 しかしサガはそのまま風呂に直行した。その点は少し意外だった。 昔なら、あそこまで激しく凹むと「いっそわたしを殺してくれカノン!」とオレに無茶言って、 拒否るとよく逆切れしていたものだが、もうさすがにそういうことはないらしい。 まあしかし、オレの顔は見たくないだろうから、ひとまず放っておくしかあるまい。 * * * 夜。 居間らしき空間でオレは一人、昔のことなどを思い出していた。 オレは立ち入ることが許されなかった双児宮。 壁は先の戦いで破損し、ところどころから月の光が差し込んでいた。 しかし長年それなりに手入れがされていたのだろうか快適な居住空間だった。 突然、入り口のほうの闇が少しゆらいだと思うと、人影が現れた。 ムウだった。 オレの顔を見ると、唇に人差し指を当てた。 …そうか。 テレポートできない十二宮だ。 万一のために来たのか。 ムウは昼間とは違い、風呂あがりのような恰好だった。 素足に直接サンダルをはいて、丈の短い上着から覗く白い膝は節々が桃色に上気している。 衣も肌も、ほどかれた長い髪も、青白い月の光に照らされて輝いていた。 白い脚もあらわに月明かりの中を歩くその様子はこの世のものではないかのようだった。 「天使」とかいうサガの言葉が思い出されて、オレは首を振った。 …バカな。しっかりしろ。 ムウはしばらく双児宮の気配を探っていたが、急に何かを決意したかのような面持ちでオレの隣に座った。 そしてオレの左脇に身を寄せるとオレの左手に右手のひらを重ねてきた。 ムウの体温と上質な石鹸の香りがオレを惑わす。 「な…」 うろたえるオレの唇にムウは左手の人差し指を当て言葉を遮った。 突然のことにオレの心臓は跳ね上がる。 顔が近い。 ムウは目を閉じ、重ねた手に力をこめる。 …これは…まさか… 「誘っているのか」という言葉をオレが飲みこんだ頃、 《…ン…カノン》 ムウの手から、次第に思念が流れ込んできた。 《サガはどんな様子ですか》 ムウの意識が言葉になってオレの脳裏に響いている。 …そうか、これがこいつの能力か… オレは先ほどのサガの様子を思い浮かべると、それで十分に伝わったらしく、 ムウは「一周しましたか…」とつぶやくと安堵したような顔で、やおら立ち上がった。 「え…?」 「いつものパターンです。今回は根が深いので本当はもう一日くらい待ちたかったのですが、休暇の日数も限られてますので…失礼」 そういうとムウはオレに軽く頭を下げ、サガの寝室に向かっていった。 * * * その後ろ姿が闇に消えてもオレはしばらく混乱していた。 …なんだ。なんだったんだ今のは。 ひょっとして夢でも見ていたのではないか。 しかしそれからほどなくして寝室からくぐもったような嬌声が切れ切れに聞こえてきた。 …な…なんだと…あのサガを立ち直らせるばかりかサガのサガも立ち直らせて喰らってるだと!? オレは驚愕した。 とりあえず、ここを出なくては、と、クラクラする頭をかかえオレは外の階段に出た。 空には中途半端な三日月がひっかかっている。 だが今のオレには眩しい月明かりだ。 左手に残るムウのぬくもり…動悸がしたのはおそらく突然だったからだ。 しかし女の色香とも違う、あの人を惑わすような白い肌は何だ… 大きな瞳、長い睫、桜色の唇…男にしておくのはもったいない。 いったい、あんなふうにされてあの体を抱き寄せない男なんかいるだろうか。 白状するが、あのときオレは少しだけ夢想した。 あの白いからだがオレの物になるのを…。 指を唇に当ててみるとあの柔らかな香りまでが蘇るようだ。 …まったくけしからん。 サガもおそらくどこかでムウに魅入られてしまったのだな。 自分のことばかりしか考えてないエゴイストが、珍しいこともあったものだ。しかもあんな因縁まみれた相手に。 ムウもムウだ。なんであんな男を好いたのかは知らない。 二人の様子は昨日今日の仲という感じではなかった。 さっきのムウの意識はとりあえず、笑ってしまうくらいサガのことばかりだった。 兄も今の心にはどのくらいムウがいるのだろうか。 ベタ惚れにも思えたが、今日の行動を見ていると怪しくなってくる。 サガの心の中は案外自分のことばかりなんじゃなかろうか。 …だいたい兄は昔からそうだった。 自分のことばかり。 …今だからわかる。 オレがやさぐれたのは不公平な扱いのせいじゃない。 本も服も聖衣も皆、ひとりぶんしかなかった。 オレたちはそれぞれにせいいっぱいだった。 つまり…サガもオレも…不器用だったんだな。 一人には慣れていた。 だが兄のことを考えだすと苛立ちが止まらなくなる。 兄など死んでしまえとあれほど思っていたのに。 本当に死んでしまったときには柄にもなく動揺した。 もうあんな思いだけはごめんだ。 サガ…どんなに憎たらしくても絶望的に変な男でもオレの兄…。 憎まれ口くらい好きにたたかせろ…! …そしてそんなオレは、こんなところでも結局サガのことばかり考えていることに馬鹿馬鹿しくなってくる。 階段にごろり寝そべる。 真上には春分をだいぶ過ぎた空。金星は30度の方向…すると真北は… 無意識に現在地を計ろうとしている自分に気づき、オレは苦笑した。 …そうだ…ここはもう、海原ではなかった…。 星を無心に眺めるなど…何年ぶりだろう。 春先の夜明けの風は冷たい。 体が冷えたのか、くしゃみが出てきた。 月はいつのまにか東の空に溶けていた。 …帰るか。 今のオレにはどうやら、その場所があるのだから。 * * * 次 戻る(企画個人ページ) ****************************************** |