夕凪(1) / 油すま吉






さればわれ戀しつつ
また戀をしらず、
まよひつつなほ
迷いを知らぬ。
 
アナクレオーン断章89篇





    *    *    *


「…しまった」
見失ったか、とムウは目を凝らした。
シャカの気配は近い。濃緑の藪に動く金色を認めたムウは、安堵とも諦めとも知れなくなった今日何度めかのため息をついた。

昼の腹ごなしのはずが、気がついたらホテルから大分遠くに来てしまっている。
道幅はしだいに狭くなり、ついに断崖にへばりつくような細い道になっていたが、それでもごくまれに車が通る。
シャカはそこを歩きまわっているのだから危ない。
そして当人は今しがた、ついに道から外れ、背の高い木々の生い茂った森に吸い込まれていった。

むろんシャカ自身の心配などしてはいない。
しかし旅先で、仮にも同行者が他人様に迷惑をかけるようなことがあってはならないのである。
黄金聖闘士が交代で休暇をとる案は全会一致で採られた。しかしその後、組分けと行き先とが当該の、少なくともムウには断りもなく割り当てられていたのだ。無論、責任が伴えば出来うる限りの対処はするのが、この努力もまた「シャカを扱えるのは聖域広しといえどムウだけ」というありがたくない評判を広めるのだろう。

シャカの徘徊は今に始まったことではなかった。
ホテルは中心街から外れた静かな場所にあったが、かえって他人の気配が気になることは事実だ。雑多な生活音はいくらうるさくても問題ないのだが、抑えた声や足音などの配慮が仇となるのは戦士の性だろう。 それでもシャカは人並みに部屋に滞在し、観光などに足を向け、そう、昨日訪れた火山でも古聖先賢よろしく火口に飛び込む真似などはしないだけの分別はあった。
今日のランチの、わざわざ彼にはベジタリアンでコースを頼んだというのに自分の皿からメインの肉を取るといった横暴もまあ許そう、とムウは思った。
何を考えているかわからないのも通常通りである。
昨日の夜から一言もしゃべることないが、そんなことを気にする段階は過ぎた。
もはや目の届く範囲にいてくれるということに感謝しなくてはならない。

その目の届く範囲を保ちながらムウは森の中を進んだ。しだいに木々の重なりは深くなり、そこかしこに垂れ下がる木蔦や、幹の周囲に高く絡まり合う樹木の長い根が行く手を遮っている。時折高く鋭い、歌うような鳥の声が聞こえる。原始の森だろうか。この湿気と勝手に歩く同行者さえなければ興味深い場所だ。
ところどころに明るく日が差すほかは一面の緑で、視力の良いムウでなければ追いすがれないだろう。
シャカはこちらを慮るどころか一向に歩みを止める様子もなく道なき道を進んでいく。呼び止めるのも癪であるように感じて、黙ってついてきたムウであるが、そろそろ馬鹿馬鹿しくなり、いい加減に放って帰ろうかと思う頃、前方に止まるシャカの背が見えた。
追いついてみればそこで地面は途切れ、眼下に海原が広がっていた。先日立ち寄った美しい白砂ではなく、おそらくは溶岩が流れ出したまま黒く固まった、ごつごつとした岩場だった。


「おそらく昨日の…」
言葉をかけたとたんにシャカがその岩場にひらりと身を投げた。
白い麻のシャツと長い髪をはためかせ、波間の岩に細い脚ですっと降り立つ様はまるで人ではないように思えた。
あのように姿勢の正しい…海鳥、そうカモメに似ているなどと思いながらムウが見ていると、シャカがこちらに顔を上げる。
そこまで付き合うのは、いいかげんやめたほうがいいのでは…と思ったときにはもう、ムウはその隣に跳んでいた。
着地した瞬間、厚い皮のサンダルの底が二、三か所切れたのを感じ、ムウは慎重に体勢を立て直した。 黒々と冷え固まった溶岩は思いのほか脆く、しかし砕けた断面は鋭いようだ。潮に混じってかすかに人の血のにおいがする。シャカは平然とした顔をしているが、足の裏かどこかを切っているのかもしれない。またそれは自分かもしれないが、いずれにしてもかすり傷だ。


こちらには目もくれず、シャカはまるで彫像のように風の吹く彼方に閉じたまなざしを向けている。
おそらく自分には見えぬ神々と対話をしているのだろう。
この海よりも青い瞳が閉じられたままの横顔を見つめているのも何か空しくなったムウは 同じく彼方を眺めることにした。


見渡す限り人影はおろか、人の気配はない。
潮風が細かいさざ波を運び、それらは足元で絶え間なく砕けては散る。
遥か先には奇妙な形の岩が点在し崖を背にした岬には幾本かの椰子が風に揺れている。
泳ぐにも適さずに打ち捨てられた浜なのだろうか。
海は浅瀬のエメラルド色ではなく、空と競うほどの深く澄んだ青色だ。
強い風に翻されせわしなくきらめく波の白さがまぶしい。
やや丸みを帯びた水平線が、ここが大洋であることを知らせている。
この果てのない海原と、蜜色に輝く聖域の海と、薄靄にけぶる灰色の波止場と、腐臭の漂う小さな潟もすべて海だ。
シャカであればこの水面にもまた、ガンジスに浮かぶ生と死を見ているのかもしれない。

    *    *    *



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