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「なんたることだ!」 闇の中をシャカは無我夢中で駆けた。鍛えた身であるのに心臓が裂けそうに脈打っていた。 ・・・聖闘士として・・・否、人としてあるまじき行為を、何故あのムウが。 体中が狂ったように熱く、シャカは転げるように夜の河に身を浸した。 かろうじて 小宇宙の暴発を抑えたものの、平静でいられようはずがない。何よりシャカを 慄かせたのは、とうに克服したと考えていた肉欲が、針のように激しくその身を刺したこと であった。シャカの強い思念に誘われた魑魅魍魎が辺りを縦横に跋扈し始める。金色に 光る狼は彼の肉欲である。 「退け悪魔よ!」 シャカは印を組むと真言を唱え、その忌まわしい獣を一頭ずつ鎮めていった。 * * * シャカが帰路についた頃にはすでに夜が明け始めていた。 シャカは庵室には戻らず裏手の池に赴いた。夜露に濡れた青草を踏みしめると 朝の冷気が心地よく広がり、ようやくその身にも平穏が訪れたかと思われた。 瞑想のために腰を降ろそうとする彼の耳に、胡弦を爪弾くような音が聞こえた。 そのかすかな音とともに蓮の花が開いたのだ。 花は池を映して青白く影り、ほのかに紅を含んだ外縁が、半月のように光る。 優雅に弛緩する白い花弁に、シャカは再び魂の底までかき乱されるのを感じた。 白く柔らかな陰影はシャカの脳内で踏みしだかれ、ムウの面影を宿してしどけなく 喘ぎはじめた。次々と花開く白蓮からシャカは目を離すことができない。 ・・・大きくのけぞらせた頭部、光に潤んだ目、小刻みに震える鼻腔、細く開いた唇、 押しはだけられた胸元、まるでふた筋の渓流でもあるかのようなその両の腕・・・ それらが浮かんでは消える。ムウの、弾むような肉感をたたえた脚が脳裏をよぎり、 耐えかねたシャカは泣き崩れた。 ひれ伏して、シャカは神仏に縋った。だが返答はなかった。 シャカは跪座したまま這うようにして、彼の修行の地である仏像の元へと急いだ。 彼の神仏はその像に降りることが多かったからである。 「ブッダよ。わたしを導き哀れみを垂れ給いし我が師よ!正しくかつあまねく真理で ある神よ!」 そう呼びかけるとさっと一陣の風が吹き、 『この世の森羅万象は虚しき夢、風に飛び散る砂である』 という、声ともいえぬ意思が響き渡り、真理が剣のように彼の身を貫いた。 たちまちシャカは力を帯びた。シャカは趺坐し真言を唱え小宇宙を張り巡らせる。 その身を外界に置きながら、シャカの意識は漆黒の闇を浮遊し上昇していく。 闇と光が不規則に交錯し、空虚に見えた闇は瞬時にして無数の仏に埋め尽くされた。 それらがいっせいに口を開き経を唱え始める。仏が一つ発するたびにその言は仏に 変化し、その仏がまた仏を生み、超過密な空間が幾層にも重なりゆく。仏はまるで 星屑のように四方に散ったかと思えば円形に渦をまき、シャカの意識を侵し、人の 輪郭を取り去った。シャカはその声の波を心地よく泳ぎ終え、光明に満ちた高天に たどり着いた。 しばらく遊んでのち下方を眺めると、ゆっくりと回転する巨大な車輪が見える。 それは欲に囚われ迷いに呻吟する人の心であった。その業が重ければ重いほど人は 阿鼻叫喚の地獄に深く落ちる。シャカは、先ほどまで自分が色欲に苦しんだことも忘れ、 かつての友の行く末を案じ始めた。 仮にも女神の黄金聖闘士が、かくも忌まわしい罪業に身を落とすなど、理解し難いこと であった。いったいどういういきさつでそのような事態になったのか。 シャカはその理由を考えてみたが、ひとつも思いつくことができなかった。 金子に困るという発想がまるで出ないあたりはさすがである。 ほどなくして「いかなる理由があっても許されるべきでない」とシャカは思いたち、 「ムウを正し救うことができるのは、このわたしをおいて他にはない」と結論した。 このままでは、いずれムウの魂はその罪ゆえに永遠に苦界を彷徨うことになる・・・ そう考えると、シャカの心はひどく痛んだ。 すぐさま三昧の境地から降り立つと、シャカはムウの館に向かった。 next back |