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時刻は正午過ぎ、厳しい日差しを避け、人々は午睡を貪っていた。 白大理石の館はイスラム風の小窓と細い柱が立ち並び、精緻を極めた象嵌装飾が 織物のような影を落としている。その白亜の門を開け、召使が止めるのも聞かず、 シャカはどんどんと館の奥へ進んだ。 後方から音速に近い拳がシャカを襲った。シャカが振り返り一瞥すると、その者らは 屋外へと飛ばされた。雑兵か、聖闘士のなりそこないであろう。それらが居るとは、 ますますもって審しい館だ。 「なんですか、騒々しい」 騒ぎを聞きつけ、奥からムウが現れた。玄関は半壊しているというのに、いささかも うろたえる様子はない。寝起きであろうか、薄絹の部屋着をゆるく羽織り、無造作に 帯を締めただけのいでたちだった。ムウはシャカを認めると、優雅に両腕を組んだ。 「あなたでしたか・・・また来ると思ってはいましたが」 階上のムウの姿を見上げ、シャカは目を細めた。 明るい日の光の下で見るムウは、思ったよりも幼く、そして昔の面影を残している。 「ムウ!今すぐ悔いあらためたまえ」 「お帰りください」 そう言い捨て、くるりと踵を返すムウの正面に、シャカは一足飛びに降り立った。 向き合うとお互いの背丈はほぼ同じであった。 ムウの退路を注意深く断ちながらシャカは言葉を続ける。 「君に訊きたいことがある」 「わたしの部屋に参りましょう」 逃げても無駄と悟ったか、ムウはシャカを奥の部屋に通した。 昨夜のことが思い出され、シャカは不本意であったが、ムウの穏やかな声には 有無を言わせぬ響きがあった。 ムウの私室はその大部分が厚く天蓋を張られた寝具に占められていた。 ムウは召使を呼び茶を入れさせると、自らは寝台に腰をかけ、シャカに椅子を勧める。 「では尋ねるが」 出された茶に手もつけず、また座りもせずにシャカは口火を切った。 「君はこんなところで何をしているのだね」 「それはこちらの台詞。あなたこそいきなり現れて、何のつもりですか」 歩を進めムウの正面に立つとシャカは言った。 「君を救いに来たのだ。君のしていることは君自身の魂を堕落させるばかりか、 他の多くの人々の魂をも堕落させている」 「堕落・・あなたからすれば、私はさぞ汚れたものに映るのでしょうね」 シャカはムウのその皮肉めいた言葉尻を捉えて言った。 「汚れと知りながら、何故このようなことをしているのだ」 「答えたくありません」 顔をそむけた拍子に、ムウの耳飾りが揺れた。金糸で刺繍された濃紺から覗く首筋は 眩しいほど白い。シャカは努めて平静を装いながら尋ねた。 「では他を尋ねる。なぜここに結界が張られている」 「聖闘士が来るからですよ」 「なに?」 「聖闘士も治療するのです」 その言葉の響きをシャカは聞きとがめた。 「君の仕事は聖衣の修復ではなかったかね」 ムウはそれには答えず、こちらを見上げると言った。 「あなたも本当はそれが目的で来たのでしょう?」 ぞっとするほど甘い声音だった。シャカはしばし呆然とその大きな瞳に移る己を見た。 蓮の花弁のようにふくよかな円弧を描くムウの瞳は、黒と紅色で薄く縁取られている。 その女のような化粧は不自然なほどに強烈な劣情を呼び起こした。 たじろぐシャカの前で部屋着の帯がはらりと解け、ムウの白い腹と脚が露わになった。 ムウは目を伏せ、身じろぎもせずにシャカを待った。長い睫毛が両の頬に柔らかい影を 落とす。そのようなしどけない格好をとりながらも、ムウの物腰には羞恥の情が漲って いるように見える。 シャカは彼を見つめたまま動こうとはしなかった。否、動くことができなかった。 袈裟の下で膝が震え身を支える限界であった。舌は渇き再び彼から言葉を奪った。 しかし辛うじてその並外れた意志が彼を踏みとどまらせた。 「いい加減にしたまえ!」 シャカは自分の声が震えていることに気付いたが、それを打ち消すように声を荒げた。 「君はわたしに身を任せたところで、わたしを陥落できるとでも思っているのかね!? とんだ思い違いだ!なぜなら神の助けは私の方にある」 ムウの顔色はみるみる変わっていった。 「神・・・神だと?女神か?それとも君の奉じる神仏か?いったい君は祈りが神に届くと でも言うのか?」 「わたしは常に神仏と対話をしている」 シャカは神仏の名を口にすることで、常態を取り戻したようだった。 ムウは非凡なこの友が昔といささかも変わらないことを知ると、己の顔が嫉妬で歪むのを 感じた。憤りを押えながらムウはゆっくりと腕を組んだ。 「あなたは神仏に愛されている、大変結構なことだ。わたしなどは見捨てておけばよい」 自分に注がれ続けるシャカの視線にムウは苛立った。 「・・・そもそもわたしがどこで何をしようが、あなたに何の関係がある!」 ぴしりと言い放たれて、シャカは一瞬押し黙った。だがすぐに言葉を継いだ。 「ムウ、わたしは君を愛している。だから言うのだ。自分自身の生命よりも君を愛している。 君ゆえにこの魂は乱れ、いろいろな思いが、泉のようにとめどなく溢れでている。しかし 肉欲に燃えているわけではない。君に群がる男達とは違う。彼らの愛はまるで狼が羊を 愛するがごときものだ。その肉欲的な獣の愛は、魂まで喰らいつくすに違いない。だが、 わたしは精神のうえで、真理で君を愛する。君に対する気持ちは真の熱情なのだ。」 ムウはこの長い告白をいかにもひねくれ者といった様子で受け流した。 「では見せていただきたい。その真の熱情とやらを。そのような未知の愛など・・わたしは もう、愛という愛を知り尽くしている」 「わたしが君にもたらす愛は栄光に満ちている。君の知っている愛は恥辱しか生まない」 険しい皺がその愛くるしい額に刻まれた。 「君がわたしを軽蔑しようと構わない。だが、そのわけのわからない同情のほうが余程 屈辱的だ。わたしは自ら望んでここに身を置いているのだ」 「それは真実かね」 「無論だ。神であろうが悪鬼であろうが役に立つとあらば厭いはしない。・・・この身など、 いくらくれても惜しくはない」 それでもわたしは生きねばならないのだという言葉をムウは飲み込んだ。 今の自分の置かれた危うい立場を、この友人に知られてはならない。 ムウは、自身に言い聞かせるように続けた。 「あなたにはとうてい理解できないことだ。わたしに好意があるのなら放っておいてくれ」 シャカは、目の前で敷布を握り締め肩を震わせているムウが、いったい何に耐えているのか 知りたいと願った。 「人間の栄光などは神の前では汚辱に等しい」 高らかにシャカは言い放った。その唐突さにムウは伏せた顔を上げ、シャカを見た。 「わたしも哀れな罪びとに過ぎない」 シャカはムウをまっすぐに見つめながらしみじみと言った。 「ゆえに君が罪に苦しむのを見るのは我が事のように、いやそれ以上に辛く耐え難い」 そのあまりに率直な言葉にムウは困惑した。逃げ出したいような気持ちに駆られながら、 ムウはシャカから視線をそらすことができなかった。 「私は君のことを友だと思っている。だからこんなことはやめてほしいのだ」 「シャカ・・・」 ムウの宝石のような双眸が揺れている。畳み掛けるようにシャカは言った。 「私を拝みたまえ。そうすれば神仏に君の罪をとりなすことができよう」 ムウの瞳が大きく見開かれた。シャカは仁王立ちし、得意げに肩をそびやかす。 ムウは溜息をつくと、乱れた衣を直した。 「・・・だから神仏が何の助けになる。君はまだそんなことを言ってるのか」 急にムウがぞんざいな口調になった。拝まれなかったことは不服であったが、シャカは 昔のようなムウの態度をひどく好ましいと感じた。 「神仏の力を信じるのだ。現に我々の女神は幼くも着実にご成長あそばされている」 「君はそれを見たのか」 ムウは思わず立ち上がるとシャカに詰め寄った。 「いや。あくまで聞いただけだ。神仏のおっしゃることに疑いようもあるまい」 「他には・・・他には何と?」 「女神はまだ人の中で眠っておられる。だから神仏といえどその様子は知れぬ。しかし 老翁に極めて丁重に育てられているという話だ」 それを聞くとムウは「ああ…」と声を上げて膝を折り、両の手を床についた。涙が数滴 豪奢な絨毯に零れて落ちた。 「それほど案ずるなら聖域に戻ればよい」 「・・・それはできない」 ムウは顔を伏せたまま苦しげに呟いた。 「何故・・」 「だがここから去ることはできる」 シャカの言葉を遮るようにムウは言った。シャカは理由を問い正したいと思ったが、 その瞳が涙に濡れているのを見て、口をつぐんだ。 「では今すぐにでも・・」 シャカが膝を折り、ムウの手を取った。すると館の結界が僅かに揺れた。 訝しんだ瞬間にはシャカはムウの手によって、館からはるか遠方に飛ばされていた。 「明日の朝また来て欲しい」、というムウの小宇宙がその耳に残された。 飛ばされる刹那、意識の隅に黒髪の男が入った。ムウを囲っている男だろうか。 ムウはあの男と話をつけるつもりなのか。それとも隙をうかがって逃げるつもりか。 ムウのことであれば逃げるのは容易いことであろう。ムウが男に従っていたのは、 彼の意志によるもので、ひとたびムウが心を翻せば、逃げることなど容易なはずだ。 シャカはとりとめのない思索をめぐらせながら、町の周囲を徘徊して時を過ごした。 その間にムウの面影を幾度も思い返した。あのかたくな心を蝋のように蕩かし、 己の指で再びその形を刻むことを夢想し、シャカはしばし陶然とした。 ムウのためならどんなことでもしようとシャカは改めて心に誓った。 next back |