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シャカは僧院に帰るとさっそく聖庵に戻り座した。 これで。ムウは罪業から解放される・・・。 しかし魂の救済をやり遂げた高揚感が湧くことはなく、清い熱情に酔うこともできない。 そればかりか庵の中の気配すら普段と異なって感じられた。シャカは眼を閉じ座禅を組み、 再び自分自身の中に沈潜しようと試みた。しかし彼の小宇宙を燃やす燈火はいつの間にか かき消えており、代りに曇り空のように重苦しい気鬱が、彼の心を占めていた。 彼は神仏と会話を試みようと意識を飛ばした。しかし容易にその飛翔は成功せず、三日が 過ぎた。断食には慣れているはずのシャカがひどくやつれたことに弟子達は驚いた。 日が経つにつれシャカはまるで苦行でもしたかのように痩せさらばえた。しかし弟子達の 誰もその原因を知ることはなく、周囲が案ずれば案ずるほどますます陰鬱になっていった。 修行において最も危険なものは、誘惑の甘さでも苦行の辛さでも無知でも狂気でもなく、 この気鬱である。シャカはその最大の敵に囚われ、数日の間、脱することができなかった。 しかし七日目の朝ようやく、精魂尽き果てた彼の身体に仏の声が響いた。 『心せよ。渇いた場所に投げ出された魚はそこで死ぬものである』 シャカは、なぜかくも自分が心が乱されるのか初めて了解した。それとともに、押えていた ムウの幻が次々と飛来した。ムウは菫色の長い髪に花冠をいただいてこちらにその微かな 微笑みを見せた。ムウはまた、黄金の聖衣に身をかため、殉教者のように女神に跪拝する。 と、思うと、金糸の花をちりばめた濃紺の長衣を纏い、その薄絹を踊るように脱ぎ捨てて、 艶かしい潤いにしっとりと肌を濡らしながら、淫らな愛欲の身振りでシャカを誘った。 シャカは限りない驚きでそれらを見つめた。 ふと、湿った熱い息吹が自分の顔を撫でるのを感じた。見るとそれは金色の狼であった。 獣は彼の顔の前に鼻を突き出し、咽喉の奥でシャカを嘲笑っていた。 シャカはこの獣が自分の庵の敷居を越えて侵入してきたことに驚いたが、それはすぐさま シャカの目の前で散った。 静寂が訪れた。金狼もいないがムウの幻も消えた。シャカはあの朝のひとときを想った。 ムウの、その脈打つ白い体を自分の胸に抱きしめることはもうないという思いが、急に シャカの心を虚しくした。 ふと気配を感じて振り返ると、先ほどの金狼が七頭に増えてシャカを囲んでいた。 それらはシャカの目の前で消滅を繰り返すたびに次々と数を増やし、数が増えるにつれて その体は次第に小さくなっていき、鼠ほどの大きさになって、びっしりと庵を覆った。 シャカはそれに構わずムウの幻を追った。ムウは今度は、生贄のように手首を括られ、 さめざめと泣いていた。黒い手がその身を往来するとムウの白い両脚に一筋血が滴った。 ムウは苦しげに眉根を寄せながらそれでもその瞳は誘うようにきらめいた。 シャカは、抜けるように白いムウの肌を一度でいいからあますところなくその身に感じたい、 そのために死んでも構わぬ、否、それ以上の望みなど抱いていないことをはっきりと識った。 シャカが立ち上がるとその足元を流砂が埋めた。それは芥子粒ほどの大きさになった無数の 金狼だった。 シャカは、瞑想の生活から世俗の館に赴いたとき、自分は死んだのだと考え始めた。 その証拠に彼と親しく話をしていた神仏は彼の問いかけに揃って口をつぐむのだった。 ムウに対する愛欲の炎は、一向に留まることを知らず、内部からシャカを焼き尽くした。 瞑想はおろか、もはや眠ることも休むこともできなくなったその汚れた場所で、シャカは 辛うじて呼吸をしているだけだった。 そのようにしてまた半月が過ぎた。 庵から一歩外に出ると、シャカはたちまち倒れ伏した。 起き上がることもかなわず、土を食むようにしてシャカは祈りを捧げた。 「偉大なるブッダよ。慈悲深き師よ。あなたの聖籠を乞うわたしに、どうして沈黙なさるのですか? わたしはあなたが仏であるから祈るのではないのです。あなたが、かつて弱き人の肉体を持っていた そのことゆえに、祈りたいのです」 シャカを助け起こそうと駆け寄った弟子達は、シャカの言葉に皆慄いた。 不敬だ!という声すら上がった。弟子達は散りゆき、力尽きたシャカはついに動かなくなった。 next back |