混濁した意識のなかで、シャカはとてつもない速さで落下してゆく自分の魂を見つめた。
それは果てのない奈落に向け矢のように進み、周囲の光は次々と上方に流れていった。
「おお」と声を上げるとその音は遥かかなたに遠のき、己の耳にすらも聞こえない。
シャカは地獄に落ちるということはこのようなものかと妙に得心した。無論、恐怖などは
微塵も感じなかった。そればかりかシャカは、ムウの幻を地獄の底まで携えて、獄吏どもに
「さあ、わたしの肉を焼け、骨を砕け、血という血を干し尽くせ。それでもおまえ達は、
わたしを永久に新たにする想いを、わたしから奪うことなどできないのだ」と叫ぶ己を、
喜びを持って確信した。何よりもこの身は堕ちても、ムウの魂は救われる、そう思うと
シャカの心は安らかになった。
その途端、大きな柔らかいものに落下が遮られた。見るとそれはブッダの掌であった。

『おまえの堕落の泥土の上にこそ、徳の花は咲き出でるだろう』

聞き慣れた声にシャカは涙した。禅を組み、渾身の力で意識を集中させると、その体は
次第に浮かびあがり、水中の気泡のように揺らめきながら、ゆっくりと上昇した。


息苦しさでシャカは身を起こした。見ると自分には黄色い粉がかけられ、まさに葬られる
ところであった。シャカは自分に巻かれた経帷子を破り捨て、腰を抜かしている弟子達を
掻き分け北に向かった。シャカは瑠璃色の光に満ちたあの生と死の中間地点で、ムウの
肉体が小さくきらめくのを見た。陸に上がった魚・・その比喩が彼の心を不安に駆り立てた。


ムウの隠遁先は直ぐに見つかった。その結界は意外なほど容易に入り込むことができる。
霧深い谷の向こうに消え入りそうな小宇宙を感じ、シャカは石造りの粗末な館に急いだ。
窓から入るとムウが床に倒れ伏していた。体に巻いた敷布からは白い肩が見えている。
床や壁、天井、そして寝床に乾いた血の跡がこびりついていた。
「いったい・・・」
何が起こったのかは知れなかった。しかしムウが自分で治癒もできないほどに衰弱している
ことは明らかだった。
「ムウ!」
シャカは駆け寄るとその身を抱き起こした。
「君か・・・」
シャカは切れ切れに絞り出されるムウの言葉を必死に聞いた。だがそれは、五老峰にいる彼の
弟子を頼む、修復の道具がどう、ということばかりだった。
「君のおかげで分かった。わたしが望むことはただひとつ・・・わたしを哀れと思うならどうか・・
・・このまま逝かせてくれ・・」
ムウが、今にも命を終えるつもりだという事実にシャカは驚愕した。
「死んではいけない」
ムウが力なく首を振る。
「君は聖域に還りたいと話していたではないか。ともに闘おうと誓ったではないか」
「聖域・・・」
その菫色の瞼から大粒の涙が滴った。あたかもそこにその地を見るように、ムウは濡れた瞳を宙に
彷徨わせている。シャカは思わずムウの頭をかき抱いた。
「わたしが君に語った真理などは偽りだった!今気がついた。地上のいきとしいけるものが育む愛、
それだけが本当のものだった。私は君を愛している。死んではいけない。死ぬにはあまりに惜しい。
一緒に逃げるのだ。聖域からも、君の運命からも全て。そして、遠いところで二人で愛し合おう」
しかしすでにムウの耳にはシャカの言葉は聞こえていなかった。
「我が師シオン・・あなたのもとへ」
ムウは虚空に視線を投げ、腕を差し伸べながら、澄み切った瑞々しい声で言った。
そして小さな灯火が消えるようにその小宇宙がふつ、と失われた。
「駄目だ・・・死ぬなムウ!」
シャカが叫ぶとともに時空から黄金の少女の像が現れた。彼の聖衣だった。
ムウの結界が消えたのである。 聖衣はただちに枯れ枝のようなシャカの体を覆った。
シャカは敷布とマントでムウを包み、胸に抱えると館から飛び出した。
「死なせぬ・・・」
そう呟くシャカの形相は凄絶を極めていた。切れ長の眼はつりあがり、髪は四方に乱れ、
体からは黄金の小宇宙が火柱のように立ち上っていた。
幽谷をうろつく亡霊たちまでもが「鬼だ、鬼だ!」と叫び、恐怖のあまり散り散りに去っていく。
ムウを抱いたままシャカは一気に聖域に飛んだ。



十二宮の階段を尋常ならざる様子で駆け上がるシャカに、誰も声をかけることはできなかった。
教皇宮へ着くなりシャカはその扉を開け、跪いた。幸い教皇はひとりであった。
「バルゴのシャカ、お願いがあって参りました」
「何事だ」
「どうかこの者の命をお助けください」
シャカはムウの体を床の上に横たえ、巻いてある布を取り払った。
教皇は玉座から降りて近づいた。しかしムウの顔を認めても、その姿をただ黙って見下ろすだけ
である。
「教皇!確かにムウは聖域から無断で去りました。ですが修復師を失ったら聖域は・・・」
「分かっておる。だが本人が生を拒絶していたらどうにもなるまい」
教皇の声には深い悲しみの色が漂っていた。
「ですが教皇、他ならぬあなたなら。いや、女神なら…」
神の名を聞いた教皇は急にムウに歩み寄るとその体を抱えた。
「・・・死なぬようにしよう」
教皇の声音がわずかに喜色を帯びたような気がした。
「教皇?」
「その代りおまえはムウに近づいてはならない。それを条件にムウの反逆の件は不問に付そう」
「お礼の申し上げ様もありません」
シャカは深く頭を下げた。
「こちらこそ礼を述べねばなるまい。よく連れてきてくれた」
そう言うと教皇はムウを抱え、玉座の奥に消えた。
シャカはその後姿を祈るように見つめた。
ムウに近づくな、という教皇の言葉はシャカの心を砕いたが、彼の命が消えぬことに、感謝しなくてはならない。


シャカは教皇宮を出て自宮へと向かった。
処女宮の広い裏庭では細い二本の苗木が風に薄い葉をなびかせていた。
かつて、友を得、仲間を得たこの地で骨を埋めようと、シャカが植えた苗木だった。
この庭でムウとともに過ごしていた頃をシャカは思い出す。
ムウの小宇宙は光に溢れ、目を閉じていてさえも、その明るさを感じられたのであった。
そのムウが。変わり果てた姿で横たわり死を望んでいた。それを妨げたのは畢竟己の欲にすぎない。
シャカはムウを抱きながら口走った己の言葉を苦い思いで反芻した。
冒涜にも近いその言葉はしかし、彼の偽らざる本心であった。


・・ムウよ、君はわたしから一切を奪い、一切を与え、わたしを造り変えた。
否、君はおそらく初めて会ったときからわたしの光だったのだ。
・・しかし君にとってわたしは、君の生きる理由にはならなかったのだな。
乾ききったはずの体から涙が溢れた。
見上げると聖域の青い空には雲ひとつない。
シャカは蒼穹を映したその瞳を、再び閉じた。


教皇宮が揺らぎ、密かに結界が張られたのが感じられた。治療が行われるのだろう。
ムウの命は救われる。
そのことだけがシャカを支えた。

「待っている・・・」
やつれ果てた唇がゆっくりと動いた。
「君がいつか・・・わたしの隣に戻るのを待っている」
シャカは呟くと、十二宮の階段を静かに降りていった。





*  *  *




エピローグに代えて・・・
裏書き『lotopagoi-蓮喰らい』黒サガムウ。救い無し。苦手な方は飛ばして↓へ
表書き『花影』十二宮の戦い後の二人の会話。後日談風。ようやくシャカムウ?
後書き 本文の後書き、原作の紹介。
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