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* * * …随分お痩せになった。 祭壇で食前の祈りを捧げる師の背をシオンは見つめた。 さきほど体を拭いているときにも感じたことだが、 ぴったりに仕立てたはずのローブの襞が肩のあたりからまっすぐに落ちている。 黄金聖闘士を退いてからは鍛錬の時間もとれないほど多忙であるのだろうか。 ほどなく師は食卓についた。 思えば食事をともにするなど何週間ぶりであったろう。 野菜ばかり食べているという師になんとか美味い肉を食べさせようと 食通で有名な水瓶座に頼んだのは自分であった。 だが…師の口に合うかは知れない。 「いけませんね」 スープを口にした師はおもむろにこう呟いた。 いっそ郷土の料理のほうが良かったか・・と後悔するのも一瞬、 「水瓶座はいつもこのような贅沢をしているとは」 と師が微笑んだ。 こってりとした上等なパテには酒精の強い甘口のワインが 良く合った。 シオンは舌平目の骨を取るのに苦戦を強いられたが 師は器用に二又のフォークを使い分けている。 「今日またトルコから絨毯が届いたそうですね」 「ええ」 「絨毯を何枚も、しかも巨大なものばかり送ってくるなどあの太守、馬鹿なのでは」 「そんなことをいうものではありません。彼が太守になってから随分領内が安定したのですよ。」 「ではなぜ進物など送って寄越すのです。」 「我々と結んでロシアを牽制したいのでしょう」 「イギリスではなくロシアを?」 「ブルーグラードがありますから…」 なるほど…と頷いてはみたものの、シオンにはこの太守の振る舞いがなんとも不愉快であった。 以前教皇の供で使者に行った折、仮面を取った師を値踏みをするように上から下まで見ていたのは、何時思い出しても許しがたい。 師が協定などに応じるつもりもないのは分かっていたが、シオンはふと尋ねてみた。 「もし…あなた宛ててだったらどうしますか」 「わたし宛て?女王の顰に倣って中に入って尋ねて来いとでも言うのでしょうか」 そう言って笑う師はどこの女王よりも気品があり…どこか妖艶ですらあった。 シオンは師が軽口をたたいたことに安堵した。 しかしそれでも不安に似た気持ちは消えない。 燭台に照らされた指は細く、おとがいの円かさが消えている。 シオンは気をまぎらすように杯を空けた。 「トルコなど…彼奴らの兵などいくら集まったところ所詮雑魚」 「雑魚…どこでそんな言葉を覚えてくるのです」 「…すみません」 訊きたいことはこんな話ではなかった。 鍛錬や黄金聖衣の話ももはやどうでも良くなっていた。 夕刻…なぜ瞑想中のはずの教皇の間から乙女座が出てきたのですか… 皿は肉料理へと移っていた。 * * * …酔ったのだろうか。 軽く眩暈がする… シオンがこちらを見つめている。 肉は小鹿であった。夜に捕らえられ一昼夜晒され赤色のソースで煮込まれている。 植物の実のような軽い香辛料の香が漂う。 シオンに見つめられて何故か乙女座の…あの男の顔が突然にうかんだ。 急に舌の上のソースの味が消え、手の中の銀の塊が重く感じた。 生ぬるい体温を帯びた金属の冷たさに総毛立つような心地さえする。 不自然に動きを止めた師にシオンは気がついたようだった。 心配をかけてはならないと、銀器を再び動かし始める。 肉の中にゆるゆると刃が沈んでゆく。 脂身の少ない胸肉はじっくりと煮込まれ、従順に骨からはがれてゆく。 ナイフとフォークの刃がかすかに触れあう。 さきほどまで気にもとめなかったそれが酷く不快だった。 柔らかな肋骨に刃が触れた瞬間、急に胃が締め付けられ、 教皇はフォークを下ろした。 その顔色は蝋燭の明かりで知れるほどに蒼白である。 「大丈夫ですか?」 立ち上がろうとするシオンを制したものの教皇の呼吸は乱れていた。 シオンは付きの者達や厨房に言伝をすると 師を抱えてその寝室に運んだ。 * * * 医師が帰るころには、師は大分顔色を良くしていた。 不調の原因はわからなかったので美味しさのあまり食べ過ぎたという 師の言い訳を聞くしかなかった。 「おまえはもう帰って寝なさい」 深夜ではあったが、いきなり子供扱いされた思いがして、 安堵も手伝ってシオンはつい声を荒げてしまった。 「わたしはもう、ヒヨッコでは…」 「シオン?」 「小僧ではありません!」 師は微笑むと言った。 「おまえは確かに強くなった。だがわたしにとってはいつまでも可愛いヒヨッコなのですよ…」 「……」 「そんな不満げな顔をするものではありません。常に優雅でおりなさい。」 その言葉をシオンは反芻した。 彼にとって優雅とは師そのものだったからだ。 師の前でだけ、シオンは己の気性を恥じた。 「わたしは…あなたのようにはなれません」 「おまえにはおまえの美質がある。それを忘れてはなりません」 そういうと教皇は弟子の若草色の癖の強い髪を撫でた。 それはいかにも子供にするような仕草で、シオンは一瞬不満には思ったが 自分に向けられた師のあまりに柔らかな声にそのような屈託は吹き飛んでしまった。 その細い手をとると、師もまた握り返してくれるのだった。 * * * どれほど長くそうしていただろう。 「もう夜があけてしまう。おまえは鍛錬があるのだから少し休みなさい」 いま少し待って…日が昇れば…美しい師の顔が見られる…そのような誘惑は抗いがたかったが、シオンは大人しく師の寝室を後にした。 それほど彼は満たされていたのだ。 長い廊下を抜け、教皇宮から出ると、すでに日は、聖域を照らし始めていた。 シオンは、まだかすかに師の小宇宙が残る己の手に静かに唇を寄せた。 その脳裏にさきほどの感覚が鮮明に蘇る。 …師が…己の手を握り、その眼差しを向けてくれた。 そのことで高揚するその想いが何であるのか知らぬまま 若いシオンの心は歓喜に舞い上がった。 …次の誕生日までに…いや、一日も早く牡羊座を継ぐことをシオンは胸に誓った。 朝日は希望の色に燃えているように見える。 足取りも軽く双魚宮の階段を降りてゆくと、下方に人影が見えた。 朝焼けに黄金の衣を輝かせながら階段を昇り来る、乙女座だった。 * * * next back |