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* * * 女神が神殿の奥から姿を表す。 生きながらにして神であるこの少女に話し掛けることは、 教皇であっても許されていない。 ひたすら御前でその言葉を待つのである。 幸い戦いは幾分遠く、拝謁は事なく終わろうとしていた。 「アテナ…」 去ろうとした女神に思わず声をかけたものの ゆっくりと視線を転じるその人ならぬ佇まいに教皇は我に返った。 「お許しください」 言葉をかけてしまったことに対してか それとも己の罪にか。 跪拝したまま教皇は頭を上げることができなかった。 女神は黙って幕屋に入ると手に金糸の縫い取りのある緋色の布を持って戻り、 それを跪く教皇の両肩に垂らした。 刺繍は次のように読めた。 ‘Omnia Vincit Amour; et nos cedamus Amori’ 「どんな人間も愛の力に打ち勝つことはできない。 ゆえに我々はそれに降伏すべきである」 異教の叙事詩の詩句であった。 愛に身をまかせよ、と仰せになるのですか!? しかし…しかし…それはそれは愛ではないのです…! 思わず口をついて出そうになる言葉を飲み込み、 その布を恭しくいただくと、教皇は聖所を去った。 …すべて受け入れよと仰せになった… 女神が…恐れ多くも自分の苦悩を、 それが何であれご存じであるということが、 今にも潰えそうな教皇の精神をかろうじて支えた。 あの慈悲深いお方をお守りしなくてはならない。 わたしのこの身など…そうだ。わたしなど。 この身など、どうなってもよいではないか。 …シオンに心惹かれるのは…亡き師の面影を見るから…それだけだ。 もはやそのような感情は一切、捨てねばならない。 乙女座は許しがたい。しかしわたしは…シオンに破戒させずに済んだことを 良しと、しなければならない。 もっとも… …もっともシオンが今までのようにわたしを師と仰いでくれればの話であるが。 * * * 師の心痛を他所に、そのころ処女宮ではシオンが乙女座に勝負を挑んでいた。 早朝、教皇宮を飛び出したシオンは 童虎に八つ当たりをし、 スニオン岬でたそがれたあと、 実に分かりやすく元凶である乙女座を問いただしに来たのだ。 無論、問いただし、という名の決闘である。 「私闘は厳禁であるが」 「逃げるか卑怯者!」 「逃げてなどいない。君とわたしで勝負になると思うのかね? そんな不安定な小宇宙で何ができる。」 「貴様と刺し違えても一矢を報いる」 「迷惑な話だ。何を逆恨みしているか知れないが」 「師を泣かせた」 「確かに泣かせはしたが。君は聞いていたのだろう?君の師匠は良いと言って泣いてはいなかったかね」 「だっ…黙れ!」 燃え上がる小宇宙に乙女座は目を細めた。 バランスを著しく欠いてはいるが、その力強さは黄金聖闘士をはるかに上回っている。同時に繊細をも見せるそれは、磨かれぬ原石さながらであった。 その脆さの原因はいわずもがなあの男である。 …そんなところも先代の牡羊座に似ている、と思わず乙女座は笑んだ。 揃いも揃って二人とも同じ男を愛しているなど滑稽だった。 …いや…三人とするべきか。 立場からすれば負けるか逃げるかすべきだったのだが そんなことを考えていた乙女座は恋敵の拳を返してしまい、 生身のシオンは天井まで吹っ飛んだ。 派出に床に落下した挑戦者の頭を踏みながら、乙女座は説教をはじめる。 「聖域では愛はむしろ奨励せよというのが女神のお考えだ。ゆえに争いは厳罰をもってこれを禁じなければならない」 「何を…貴様…師を手篭めにしたくせに!」 「手篭めになどできるものか。引退したとはいえ教皇は元牡羊座の黄金聖闘士。 わたしとて正面から挑んだら無傷ではいられまい。ともすれば負けるかもしれんのだ。そもそも教皇の権限でわたしを誅殺することなどたやすかろう。分かるかね。君の師匠は望んで私に抱かれているのだよ。」 「言うなーッ!」 臨界点に達したシオンの小宇宙が爆発し、調停に来た蟹座が飛ばされた。 勢いにのって拳を放とうとしたシオンを、乱入した童虎が真正面から遮った。 「馬鹿め頭を冷やせ!!引け!!引かんかシオン!!」 「うるさい!邪魔をするな!!お前こそ引け!!!」 いつのまにか、いつものように童虎とシオンの喧嘩となり 黄金聖闘士らが数人がかりで割って入り、結果、両成敗となった。 そして例によって岩牢にいれられ、例のごとく口論だけは続いていたが、 今回ばかりはシオン特有な無駄な勢いがなく、童虎はいささか調子を崩していた。 「どうしたというのじゃ」 「おまえに…おまえにわたしの気持ちなど分かってたまるか!!!」 「では訊くがいったいどんな気持ちでおる」 「なんだと?」 「師は師であろう。いちいち弟子が口出ししてどうするのじゃ」 「黙れ…黙れ黙れ!!!」 肩に置いた手を全力で振り切られ、 「何じゃわしがせっかく…」 拳をくらわせようと正面に回った童虎は仰天した。 あの気位だけは誰よりも高いシオンが涙しているのである。 「おぬし…」 シオンは黙って童虎に背を向けた。 乙女座が憎かった。だが自分の運命もまた憎かった。 あの美しい師の弟子であることを神に感謝したその日に シオンはそれを呪っていた。 師のことを思うと胸が痛い。 シオンはそれがようやく恋であると知ったのだった。 ほどなくして黄金聖衣が二人に渡されることになるが この一件が考慮されたのは運命の皮肉である。 シオンはこれで乙女座と対等と息まいた。 だが十二人の黄金聖闘士が揃った聖域には、戦いの足音が確実に迫っていた。 * * * act.I 終わり next(act.II) back |