*   *   *



シオンの心は晴れなかった。
牡羊座の黄金聖衣に身をつつみ、聖域の頂点である十二宮、
その第一の宮に立っているというのに。
…あの日以来、師は自分を避けているような気がしてならないのだった。

戦いが近い…それだけだろうか。
教皇は連日スターヒルに篭り、星を読み夜を徹して祈りを捧げているという。
弟子のシオンですら教皇宮への出入りは禁じられ、
その姿を見ることができるのは謁見の場のみ。
それも済むとすぐさま黄金聖闘士たちを宮の守備を命じられた。
自分も、また乙女座も例外ではなかった。

シオンは白羊宮から階上を見上げた。
青空は群れ立つ神殿の破風に綺麗に縁取られ
岩肌に張り付いたオリーブの濃緑が時折風に揺れている。

師の、静かな力に満ちた小宇宙を遠くで感じながらシオンは、
あの日のことが、全て幻ではないかと思うようになっていた。
慎ましい師があのような大仰な声をあげるなど…今でも信じがたい。
だがその声は間違いようもなく師のそれだった。
あまりの激しさに打擲されているのかとさえ疑ったが
悲鳴は明らかに艶めいて甘かった。
…思い出すたび体中の血が逆流するような感覚が蘇る。

「乙女座…」
シオンは拳を握り締めた。
あのとき、刺し違えるつもりで放った拳を、聖衣を着ていたとはいえ
乙女座にあっさりと返されたのである。
そしてその後、しとめられるかと思った拳を童虎に邪魔され…
シオンはギリリと歯を噛み締めながら滾る怒りと力を抑え、己に言い聞かせた。
…もう少しの辛抱だ。
聖戦が始まれば…この白羊宮で敵を一人残らず血祭りにあげてやる。
真新しい純白のマントがシオンの背で広がり、聖衣を明るくする。


黄金聖闘士に任命されたのは、僥倖であった。
一刻も早く師に牡羊座として認められたいシオンにとって
差し迫った戦いは好機以外の何物でもなかった。
先手必勝、一気に大将首をあげ、戦いを勝利に導くのだ。
戦いが終われば…また師と以前のように過ごせるはずである。
少なくとも師には心安らかな日々を送ってもらいたい。
痩せてしまった師の姿がシオンの胸を痛めていた。


と、シオンの背後に太い声が響いた。
「邪魔するぞ」
童虎であった。
「何用だ!」
思考を邪魔されシオンは露骨に不機嫌な顔を向ける。
「まあ怒鳴るな…うるさいのう」
この飄々としたところがまたシオンの勘に触るのだった。
シオンの「ついで」に天秤座になったと揶揄されても一向に腹を立てない、
何を考えているか読めない男。
だが、戦いに際し機を熟すのを待つ、という聖域側の態度には
シオン同様危機感を覚えているらしく、この男は独自に冥界の情報を集めていた。
「例の話じゃ…進展があったぞ」
今やシオンとの喧嘩は他愛もない口論から戦略の議論となり、
一方が暴走するのを一方が止めるといった牽制のし合いとなっていた。

「それは真実か?」
さすがのシオンも声をひそめた。
「うむ。封印されてはいるが、漏れ伝う小宇宙が…人間のものではないというのだ」
「海皇か?」
「海皇は毎回決まった血筋の人間の体を借りるという」
「ではやはり冥王ハーデス…」
「だとしても動くにはちと早い…聖域側は…教皇はどうされている?」
「教皇とは…師とはしばらく話をしていない」
「ほう…?」
シオンの焦りを知ってか知らずか、童虎はその理由を促す。
「…きっとお忙しいのだろう」
「さあて何でお忙しいのかのう」
童虎に苛立ちを悟られるのは癪だったが、含みのある言い方につい声が大きくなる。
「何が言いたい!」
「いや…おぬし先週双子座が密かに教皇宮に呼ばれたのを知っておるか?」
「何ッ…!」
最年長の双子座を師は慕っていた。乙女座ではなくまさか今度は…
「おそらく参謀役じゃろう。教皇側もなにがしかの策を練っているということじゃ」
「…そうか」
あまりに短絡的な自分の想像にシオンは一瞬さっと顔を赤らめたが、童虎は気にもとめない様子だ。

「いずれにせよ我々の総司令官はあのお方。そこでじゃ」
シオンを見つめると童虎は続けた。
「今の話をそれとなく教皇の耳にいれるのじゃ。そして聖域の出方を待つ」
「なんと!それでは秘密裏に調べた意味がないではないか」
「まあ、詳しいことは伏せ、あくまで噂として流しておくのじゃ。それによって聖域側の策も増えよう」
「聖域側を撹乱するというのか」
「考えてもみよ。神話の時代から延々と戦ってきたということは実力が変わらぬということ。 それに勝つには奇策を講じるしかあるまい」
「敵を欺くには味方からという訳か」
「そうじゃ」
童虎が手の内を明かすということはすでに別の戦略が出来ているということだった。
そしてこの男はそれをけして漏らしはしないのだった。
「しかし童虎よ…勝手に動いたのが知れたらなんとする」
「わしが死んで侘びればすむこと」
「おまえ…」
どこまでも考えが読めない友にシオンは呆れるしかなかった。
「ほっ…わしがせっかく教皇宮にゆく口実をつくってやったというのに礼もなしか」
そう言うと童虎は日に焼けた顔から白い歯を覗かせた。
「これは貸りだぞ!覚えておけ」

背を向けそういい捨てると、シオンは階段を駆け上がった。






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