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* * * 深夜。 教皇は一人、目を醒ました。 隣では乙女座が寝息を立てている。 …何か胸騒ぎがする。 星見の時間にはまだ少し間があった。 乱れた夜具に夕べの澱が絡み、内腿はぬるりとした痕跡に濡れている。 身を清めようと起こしかけた背を後ろから抱きすくめられた。 また無理を強いられるかと身を堅くしたが、その様子はない。 どうやら寝ているようだった。 背中越しに、規則正しい心音が響く。 血も涙もないようなこの男も、所詮は生身の人間であり この鼓動が途絶えれば冷たい躯となるのだ。 …儚い身であるのは同じか… 教皇は己に回された腕のなかで、再び目を閉じた。その腕の重みも、触れる肌や髪も、牡の匂いすらも不思議になじんでいた。 ふいに涙が溢れた。 昨夜の名残か。己に禁じていた感傷までもが出てきた、と教皇は自嘲した。 情交の記憶はあいまいである。 だが思い出せぬほど乱れたことは覚えていた。 そもそもこの男がシオンを助けるなどと言い出したからである。 …何故そのようなことを… 冷えた涙が鼻梁を伝い落ちるにまかせ、教皇はぼんやりと思考をめぐらせた。 するとあまりに当然な、しかしながら最も有り得べくもない答えに、思い至った。 …まさか 指が、足先までが震え出すのが分かる。 …しかし…しかしそれは……! 起きあがろうとすると自分を抱く乙女座の腕に力が篭り、首筋近くに熱い息を感じた。 目を覚ました…否、起きていたのか。 「放せ…」 振りほどいた腕を掴まれ、さらに深く抱かれた。 「逃げるのかね…」 …この男は不躾にも心のなかにまで押し入ってくるつもりか。 「…駄目だ」 乙女座は無言で顔を近づけてくる。 …いけない。 ここでいつものように唇を奪われたなら何か取り返しのつかぬ淵に追い落とされるような心持ちがして、教皇は必死で抗った。 その意図がなんであろうと、その申し出は受け入れてはならないものだった。 乙女座を頼むということはすなわち… 「君は死ぬつもりか」 「…何の話だね」 乙女座はさも面倒そうにつぶやくと教皇の肩口から顔を放した。 教皇は身を起こすと、そのまま寝台から滑り降りた。 「いくら君とはいえ他人を助けて生き延びられようはずがない」 「…そのことか」 乙女座と距離を置きながら、教皇は言い切った。 「わたしが間違っていた。君の提案は、受け入れられぬ」 「…それは教皇としての言葉かね」 「そうだ。だが、友としても思うのだ。君が守るべきは…言うまでもなく我らが女神、そして君自身だ」 あれほどに快楽に潤んでいた瞳に強い光が宿っている。狂ったように己を求めていたその白い体には今、一分の隙もない。 夕べとは別人の、いや本来の牡羊座、彼のかつての同僚がそこにはいた。 乙女座はゆっくりと息を吐くと友のその生真面目な顔を見た。 「…わたしを見くびるな」 「君こそ自惚れるな」 低く言い放てば、教皇も切り返す。 …なんと無粋な男だ…だが… 乙女座は目を細めた。 言い争うにせよ、何にせよ…勝敗など、とうに分かりきっていた。 時は迫っていた。 教皇は着衣を終え、背を向け歩き出す。 「君こそせいぜい気をつけたまえ。教皇様をお守りするものなどないのだからな」 「分かっている」 振り返りもせず去ろうとする教皇の、その名を、乙女座は小さく呼んだ。 一瞬、歩みを止めたものの教皇はそれには応えず、部屋を後にした。 * * * そのころ、巨蟹宮の入り口に蟹座は若い同僚の姿を見た。 「おう…天秤座の小僧。どうした夜更けに」 「教皇宮から出てくる姿を拝見しましての…少々」 蟹座は察したようだった。 「ああ?…見てたのか。知らん振りをしてくれよ。だがな、ちょっとぼやかせてくれ。これから遠出せにゃならん」 「シオンのお目付けで」 「良く知ってるな。…だいたい双子座も心配がすぎるぜ」 蟹座は投げやりな仕草で、よく手入れの行き届いた聖衣の腹に両の手をあてた。 「教皇様が心を病まれたと女官達が噂しておりましたが」 「心を病むだあ?あいつがそんなタマかよ。あの野郎はな、すました顔してこのオレ様を三回もノシたんだぜ!?」 …教皇…お強いとは聞いてたが蟹座をのう…。童虎は心中で笑いを噛み殺した。 「では教皇様は…」 「要するにアレだ、乙女座の野郎とお楽しみだったんだろ…あぁあ畜生!」 乙女座との関係までも知れている、童虎はこれも確認した。 「聖戦前の夜は一秒でも惜しいですからのう…」 「まったくだぜ」 蟹座は女色派で、童虎とは聖域で数少ない同好の士であった。 「…よろしければこの天秤座めとお役目代わってくれませんかの?ちとシオンに用事があったのじゃが、逃げられてしまって…」 そして蟹座は甘言に飛びつかない男ではなかった。 すぐさま着替え、街へ出てゆく男を見ながら、蟹座も白…と童虎は数えた。 * * * 教皇は暗い廊下を急いだ。 胸騒ぎは止まぬばかりか次第に大きくなっている。 先ほどの様子では乙女座も、何かを感じているようだった。 教皇は沐浴を諦め、スターヒルへ直行した。 雲ひとつない夜空の、北天の星は依然として動きを見せない。 だが教皇はとてつもなく大きな邪悪の小宇宙が立ち上るのを予感していた。 …方角は…東だ… 「シオン…!」 教皇は思わず声をあげた。 シオンは強い。だがそれでも聖戦は何が起こるか分からない。命を落とすもその宿命と、そう覚悟を決めたというのに、心が裏切る。 しかし…自分は、もはやどうすることもできない。 強風に煽られ縺れる長い髪を払いもせず、教皇は立ち尽くした。 刹那その眼下から東へ、流星のように黄金の光が飛んだ。 天秤座であった。 教皇は祈るようにその軌跡を見つめた。 * * * next(act.III) back |