*   *   *







一面の闇。
無数の黒い影に囲まれ、シオンの退路は完全に絶たれた。
そればかりか、その両足には地中から出た鋼鉄がロープのように絡み付いている。
「独りで来たのが運の尽きだったな」
黒い鎧の男がシオンに近づく。
「きさまら冥界の…」
「そうよ。冥王ハーデス様の戦士、冥闘士」
山のような大男が拳を繰り出しシオンは背後の岩に叩きつけられた。
「首を頂戴するが悪く思うなよ・・死ね!牡羊座!」
霧深い山中に断末魔の叫びが響き渡った。




「シオン!!!」
闇が消えた。 見慣れた天井に、教皇は安堵の溜息をつく。
…夢であったか。
「大丈夫かね…随分うなされていたようだが」
枕元に乙女座が立っていた。
教皇は一瞬不快そうに眉をよせたが、すぐさま尋ねた。
「シオンは・・?」
「ジャミールだ」
行ってしまったか…嘆息する教皇に対し乙女座は冷静だ。
「そう案ずることもあるまい。奴の力は君も分かっているだろう」
「そう・・だな。それより謁見は…!」
「双子座がすべて代行している」
「何だと…?」
「君を休ませるために少々手荒なマネをしたと言っていた」
「双子座…いったい…」
「安心したまえ。私が見た双子座は正義だ」
教皇は何か言いたそうだったが乙女座がそれを遮った。
「どうしたというのだ。かつて最強を謳われた牡羊座の君が、双子座ごときに虚を衝かれるとは。」
「……」
「それだけ弱っているということではないかね」
誰のせいだ、という言葉を教皇は飲み込んだ。ここのところ食が進まないのはこの男のせいだけではなかった。シオンを案じるあまり食事も喉に通らないのだ。
胃のあたりの疼痛も止まない。


「胃の腑をいためたか…」
乙女座の手が夜着を分け入ってくる。
自分を弄ぶばかりの手が今ばかりは温かいことに教皇は少し戸惑った。言われるままに力を抜くと、掌からはじわりとした熱が侵入し、痛みが引いていく。
心持ちまで安らいで、教皇はふと、乙女座を見やった。
整った鼻梁に長い睫毛。湖水のような青い瞳。昔の面影を残すも、その眉間には薄く苦悩の跡が刻まれていた。
…君にとってはまだ、生きることは哀しみなのか…?
教皇はかつての友に身を預けたまま、静かに目を閉じた。
己の腕の中で、ゆっくりと弛緩する体に、乙女座の心は揺れた。
告げるのであれば今である。
乙女座はうつむいたまま言った。
「君の弟子を助けてやる」
「何…」
「二度も言わせるな。これは乙女座としてではなくわたし個人の裁量だ」
あくまで平坦な声音だった。しかしこの男が約束を違えることなど、ましてや軽口などを言うはずがなかった。教皇は気がつくとその背を抱いていた。
「ありがとう…シャカ」
乙女座は思いがけなく呼ばれた自分の名に顔を上げた。 先ほどまで憂いに沈んでいた友が・・幸せそうに笑んでいた。実に晴れやかな笑みであった。
乙女座はいっとき見とれた。だがすぐに視線をそらした。
「君は…弟子のためなら憎い男に抱きつき媚びを売るのか…!」
口元が微かに震えている。声高に発せられた言葉はいつもの皮肉のように聞こえ、教皇もそれに応じた。
「そうだ。笑わば笑え。シオンの命が助かるなら何でもする。君に蔑まれようと構うものか。」


乙女座は寝台から離れ、背を向けた。
「何でもする…と言ったかね?」
その声はぞっとするほど冷たかった。
「…よかろう」
乙女座は振り返ると言った。
「わたしを拝め」
教皇は床から降りると、おそらく女神にしか折ったことのないだろう膝をつき乙女座の前で額づいた。
乙女座は、思わず蹴り倒したいほどの激昂に駆られたが、辛うじてとどまった。
…髪を掴んで奉仕させようか…しかしそれではいつもと変わらない。
「これで満足か」
その強い眼差しに、乙女座は殺意にも似た黒い感情が湧きあがるのをはっきりと感じた。
「まさか」
乙女座は短く笑うと言った。
「君独りで最後まで終えたまえ」
「何を…」
「これがわたしからのせめてもの慈悲だ。使うがいい」
乙女座は棚から小さな香油の瓶を出し、傍らの机に置いた。
ようやく事態を察した教皇の顔から血の毛が引く。
まだ毒をあおれといわれたほうがましである。
「馬鹿な!」
教皇は声を張り上げた。羞恥と困惑で顔が火のように熱い。
「そんな…無理だ!そんなことを…そんなことをするくらいならわたしはこの手を切り落とす!」
乙女座は静かに…しかし有無をいわさぬ様子で近づくと言った。
「君は覚悟というものが何であるのか知っているのかね?受け入れるということがどういうものか分かっているのかね?悟るということは放棄するということだ。心も誇りも全て譲り渡して降伏するということなのだよ。それが君にはできないのかね?そんな薄っぺらな悟りなどこのわたしが粉砕してくれる!」
語気は次第に荒くなり、その言葉が終えるころには教皇は嗚咽していた。
ほどなくして教皇は涙に濡れた顔を上げ、まっすぐ乙女座を睨んだ。
「君を軽蔑する」
「おおいに結構。やるのかね、やらないのかね」
教皇は無言でローブを脱ぎ捨てると香油を抱え寝台に上がった。


小瓶を傍らに置くと教皇は白い裸体を敷布に横たえた。
一瞬ためらったが香油に左手の指を浸す。
乙女座が見ている。その膝に縋って泣いて懇願したら、許されるかもしれない。
しかしここで引き下がれるか。
教皇は唇を噛むと白い腕を下腹部に伸ばした。
蜜色に濡れた指が、その器官ではなく叢の奥に這わされたことに、乙女座は軽い衝撃を覚えた。
そのように彼の性をたがめたのは自分であったがしかし…
「くっ…」
慣れない感覚に、呻きが漏れた。だがそこがより早く終焉を迎えられるだろうことは知れていた。 はたせるかな、体は濡れた指を難なく飲み込んだ。
それでも皮肉なことに乙女座の責めを思いださなければ、中を探り当てることができない。
その躊躇を見て、乙女座はようやくを己を取り戻した。
「手を止めるな」
容赦のない叱責が飛び、白い脚がさらに開かれた。
「いい格好だ。君の弟子が見たらなんと言うか…」
その言葉に教皇の鼓動が大きく跳ね上がった。気の遠くなるような羞恥に眩暈すら覚える。 無意識のうちに差し述べたその手は…差し入れたその指はかつて欲望され愛された記憶を刻んでいた。
それに思い当たるやいなや、急激に体の芯が熱を帯びた。
「…はあっ」
別の生き物であるかのように指が動く。
浅い呼吸が切ない喘ぎに変わるのを抑えることができない。
教皇は必死に堪えていた己の何かが、ふつ…と切れたのを感じていた。
溢れ出した愛慕の念が全てを押し流し、激情に煽られた熱は炎となって四肢を駆け巡る。 我が身を抱く腕までが、己のものではないような錯覚に囚われ、教皇はただ陶然と、情欲の獣がその身を喰らうに任せた。


自らで自らを貶めながら、そのより深い侵入を求めて白い腰を浮かせ、身を捩らせ悶えるさまに、乙女座は言葉を失った。 御しがたい快楽の荒馬の背で抗っていた男が、今や自ら鞭を打ち裸馬を駆っている。 いかに乱れ、欲に溺れようとも揺るがなかったこの男の誇り高い拒絶が、今、無残に溶かされていく。
「あ…あっあ…あああああ」
白い背が反り、紫の髪が揺れて乱れる。せわしくなる呼吸、絶え間ない嬌声。閉じることを忘れたかのような唇からは雫が滴り落ちる。
乙女座は某然とそのさまを見た。
…そのあさましい姿が君の本性か…
あまりにも淫らだ。
だがそれでもなお、いやそれだからこそ一層激しく欲情する自分をどうしたらいい。四散する心と裏腹に体ばかりが痛いほど滾ってくる。


幾度か休みなく達して、教皇はいよいよ倒れた。荒く息を吐き、意識を失いかけたその身を、耐え切れず乙女座はかき抱いた。
狎れた肉は彼を拒まなかった。
こちらに向けられた瞳はしかし乙女座を見てはいない。
その唇が紡ぐのは彼の愛する男の名だった。

乙女座は完全に打ち砕かれた。 追い立て、苛み、地に落とし…完膚なきまでに叩きのめしたと思ったそれは己の魂だったのだ。
…いっそ君の駆る狂気の獣もろとも、破滅の淵に沈めてくれ…
その体が抜け殻と知りながら乙女座はやみくもに奪う。
教皇もまた、うつろな瞳のまま哀れな男を貪った。


二人はまるで幸福な恋人たちのように、もつれ絡み合ったまま堕ちた。




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act.II終わり
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